「ボルト判決」の版間の差分

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こうしてワシントン州は1960年代いっぱいにわたって、インディアンと州当局との漁猟権を巡っての抗争の場となり、暴行逮捕されるインディアン抗議者たちは女・子供を問わない異常事態となった。州の白人漁業者団体「ワシントン州スポーツマンズクラブ」(WSSC)は、「インディアンを条約で優遇するな」と叫び、武装してワシントン州当局の抗議弾圧に加わった。
 
対する地元のインディアンたちは運動団体「アメリカインディアンの生き残りのための協会」(SAIA)を結成。[[全米黒人地位向上協会]]」(NAACP)、「[[ブラック・パンサー党]]」などの[[黒人]][[公民権]]団体や、「[[w:Peace and Freedom Party|平和と自由の会]]」、「[[w:Students for a Democratic Society|民主社会のための学生たち]]」、「[[社会主義労働者党 (アメリカ合衆国)|社会主義労働者党]]」などといった白人学生団体とも連携し、抗議運動を全米にアピールし始めた。
 
1964年3月2日、「SAIA」は一斉にワシントン州の保留地外区域の川に一斉にボートを繰り出し、伝統的な投網漁を行う「フィッシュ=イン」(一斉に釣る)抗議を決行した。この「フィッシュ=イン抗議」はその後10年近くにわたり、ワシントン州のインディアン権利運動の象徴となり、全米の注目を浴びる民族運動となった。
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1970年、ボブ・サタイアクムは条約に当該する14のインディアン部族による代表訴訟団を結成し、この年、連邦法廷にこの問題を持ち込み、3年間にわたる調査と、法廷での証言が繰り返された。
 
1974年、合衆国地方裁判所ジョージ・ボルト判事は、[[メディスン・クリーク条約]]」にある「すべての市民と共用(in common with)される」という文言を、「条約当該インディアン民族が、年間漁獲量の半分を得る権利を恒久的に有する」という意味であると解釈し、「ワシントン州のインディアンは条約に基づき、州で採れるサケの総漁獲高の半分を得る権利を認める」という、歴史的な「ボルト判決」を下した。
 
ボルト判事が引用した「メディスン・クリーク条約」には、「インディアンたちが、すべての市民と漁場を共有する(to said Indians '''in common with''' all citizens of the Territory)」という一文が記載されている。スティーブンス初代ワシントン州知事が交渉に携わった6つの条約のほとんどに、これと同じか、よく似た言い回しが用いられている。
 
この文言の定義について、ボルト判事は次のように述べている。

:「辞書の定義によれば、そしてインディアン部族との条約や、今回の判決において意図され用いられているこの『共有する(in common with)』という文言が意味するところは、『魚を獲る機会を均等に共有する』ということであり、したがって条約に定められていない(白人)漁師たちは[[漁獲可能量]]の50パーセントの魚を獲る機会を有しており、条約で権利を保障されている(インディアン)漁師たちも同様に50パーセントの魚を獲る機会を有している。」
 
こうしてついにインディアンの自決に繋がる伝統的な投網漁が、条約の再確認と共に認められ、インディアン側の大勝利となった。