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[[1230年]]には[[アナトリア半島|アナトリア]]東部で再起をはかっていた[[ホラズム・シャー朝]]の[[ジャラールッディーン]]を破ってその領土を吸収し、さらに[[エジプト]]の[[アイユーブ朝]]と[[歴史的シリア|シリア]]北部の領有をめぐって対立し、[[1234年]]にアナトリアに侵入したアイユーブ朝の軍を撃退した。カイクバードの治世にルーム・セルジューク朝の領土は最大限に広がり、カイクバードはその最盛期を築き上げ[[セルジューク朝]]の復興を遂げた名君と評価される。
 
1237年、軍を召集して新たな遠征に出発しようとした途上、[[カイセリ]]で急逝した。長子で後を継いだカイホスロー2世により[[毒殺]]されたとする説が有力である。カイホスローの治世には[[トゥルクマーン]]遊牧民の反乱が起こり、また[[アゼルバイジャン]]に駐留するモンゴル軍に敗れて、ルーム・セルジューク朝は急速に衰退していった。
 
{{先代次代|[[ルーム・セルジューク朝|ルーム・セルジューク朝君主]]|1219年 - 1237年|[[カイカーウス1世]]|[[カイホスロー2世]]}}