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'''松倉 勝家'''(まつくら かついえ、[[慶長]]2年([[1597年]]) - [[寛永]]15年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1638年]][[8月28日]]))は[[江戸時代]]初期の[[大名]]。[[肥前国]][[島原藩]]2代藩主。官位は従五位下、長門守。初代藩主[[松倉重政]]の長男。正室は[[片山与安]]の娘。名は重次とも
 
== 生涯 ==
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やがて勝家は年貢を納められない農民やその責任者である[[庄屋]]の妻や娘を人質にとるようになる。前述のクーケバッケルや島原の乱の記録を残した[[長崎市|長崎]]の[[ポルトガル]]人[[ドアルテ・コレア]]は、娘や子供が[[蓑]]を着せられ、それに火をつけて苦しむ姿を「[[蓑踊り]]」と呼んでいたという記録を残している(蓑踊りが処刑だったか、それとも拷問の手段だったかは今でも疑問が多い)。
 
『[[黒田長興]]一世之記』によれば寛永14年([[1637年]])10月、口の津村の庄屋与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。庄屋宅では人々が何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう納めるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]、耐えかねた領民はついに蜂起し、代官を殺害した。これが[[島原の乱]]の始まりである。
 
乱の鎮圧後、寛永15年[[4月4日 (旧暦)|4月4日]]([[1638年]][[5月17日]])、勝家は[[寺沢堅高]]([[唐津藩|唐津藩主]])と共に悪政の責任を問われた。勝家は[[改易]]、所領を没収され、[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]には[[美作国]][[津山藩]]主[[森長継]]に預けられた。『[[嶋原一揆松倉記]]』によれば、屋敷にあった桶の中から農民と思われる死体が出てきたため、これが決め手となり、5月になって取り調べのため江戸に護送され、同年7月19日に江戸の森家下屋敷で斬首に処せられた。通常、大名が不名誉な斬首に処せられることはなかったので、いかに幕府が勝家の苛政を重罪として扱ったかがわかる(ただし切腹説もある)。
 
彼には二人の弟がいたが、次弟・重利は[[讃岐国]][[陸奥国]]会津と預けられ、[[明暦]]元年([[1655年]])に自殺。末弟・三弥は命は助けられたものの[[浪人]]となってしまい、松倉家は断絶し、[[高力忠房]]が[[遠江国]][[浜松藩]]より[[転封|移封]]されて島原藩を継いだ。次弟の重利の系統は300俵の旗本として存続している。
 
{{島原藩主|松倉氏|2代|1630-1638}}