「虻田郡」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: uk:Повіт Абута
編集の要約なし
1行目:
{{Pathnav|令制国一覧|[[北海道 (令制)|北海道]]|胆振国|frame=1}}
 
'''虻田郡'''(あぶたぐん)は、[[北海道]]西部、[[胆振総合振興局]]と[[後志総合振興局]]にまたがる[[郡]]。
12行目:
[[江戸時代]]の虻田郡域は[[蝦夷地|東蝦夷地]]に属し、[[松前藩]]によってアブタ[[場所]]が開かれていた。[[寛政]]年間になり、それまで地形が険しく道が途絶え舟に乗り換えていた区間を、幕命をうけた松前藩によって[[山越郡]]と虻田郡の境を越える礼文華、弁辺等の山道([[国道37号]]静狩峠の前身)が開削され、[[渡島国]]の[[函館市|箱館]]から[[道東]]や[[千島国]]方面に至る陸路が繋がっている。
 
[[江戸時代#江戸時代後期|江戸時代後期]]、国防のため寛政11年虻田郡域は[[天領]]とされ、後に蝦夷地各地に馬を供給する馬産牧場であった有珠・虻田牧場が開かれ[[馬頭観音]]碑が入江地区に建立されている。享和3年には幕命で警固にあたった[[津軽藩]]によって長万部-虻田間の道路が改修されている。また、虻田場所請負人和田茂平によって[[文化 (元号)|文化]]元年には恵比須神社が、文化4年には[[稲荷神社 (洞爺湖町)|稲荷神社]]が建立される。後世、恵比須神社は稲荷神社に合祀されている。[[文政]]4年には一旦松前藩領に復したものの、[[安政]]2年再び天領となり[[南部藩]]が警固を行った。
 
虻田郡域では古くから[[火山活動]]が盛んで、[[有珠山]]は[[寛文]]3年、[[明和]]6年、[[文政]]5年、[[嘉永]]6年と江戸時代だけでも頻繁に[[噴火]]しており、特に文政5年の噴火では[[火砕流]]によって[[虻田町|虻田]]の集落が壊滅的な被害を受け多数の犠牲者を出し、有珠・虻田牧場も多くの馬を失う被害を受けた。[[慶応]]3年4月漁場請負人和田屋茂兵衛によって[[豊浦神社]]が創建される。[[戊辰戦争]]([[箱館戦争]])終結直後の[[1869年]]、[[大宝律令]]の[[国郡里制]]に倣い[[北海道 (令制)|北海道]]に11国86郡が置かれると、この地は[[胆振国]]虻田郡となった。設置郡の成立当時、[[寿都郡]][[黒松内町]]黒松内地区も虻田郡に含まれていた[http://www.kuromatsunai.com/kuro_immig/img_youran/history.pdf]。[[廃藩置県]]前の[[明治]]2年[[9月7日]]から明治3年9月まで[[庄内藩#大泉藩|庄内藩]]の、明治4年[[3月14日]]から8月まで[[仙台藩]]士・[[伊達邦成|伊達藤五郎邦成]]の所領となっていた
 
明治15年([[1882年]])2月8日、[[三県一局時代#廃使置県|廃使置県]]にともない虻田郡は[[札幌県]]の所管となる。[[1897年]]に支庁制が施行されると室蘭支庁([[1922年]]より[[胆振支庁]])の管轄となったが、[[1899年]]に倶知安村が岩内支庁に移管された。[[1910年]]に岩内・寿都・小樽の三支庁を[[後志支庁]]に統合する際、虻田郡の一部がこれに編入された。
51行目:
*内務省衛生局保健衛生調査室編『各地方ニ於ケル「マラリア」ニ関スル概況』1919年(大正8年)発行(2008年1月21日現在、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で閲覧可能)
 
== 関連項目 ==
* [[北海道の分領支配]]
 
{{胆振国の郡}}