「楊応龍の乱」の版間の差分

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'''楊応龍の乱'''(ようおうりゅうのらん)は[[1591年]]([[万暦]]19年)から[[1600年]](万暦28年)にかけて[[明]]の播州で起きた反乱。播州の乱とも呼ばれる。[[万暦の三征]]の一つ。
 
== 経過 ==
播州は[[泗川]]と[[貴州]]を結ぶ交通の要所にあり、険しい山や数万畝の田地を有する地。住民の多くは熟苗と呼ばれる中華文化に馴染んだ[[苗族]]であり、漢風氏名を有し漢風文化を理解すると共に村落を形成して農耕を行っていた。また、山間部には生苗と呼ばれる中華文化に染まらずに、原始的な狩猟や農耕を行う苗族も居た<ref name="okano1971">岡野昌子「明末播州における楊応竜の乱について」1971年</ref>。
 
明朝はこれらの非漢族の土地を統治するため、土着勢力の部族統率者や漢族系在地勢力を世襲的に[[土司]]・土官に任命して間接統治を行った。楊氏も[[唐|唐代]]より[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]・明の各王朝で代々播州を根拠地としており、漢族・苗族の統治にあたった土司であった。在地権力者の一人として[[楊応龍]]は1572年([[隆慶]]6年)に宣慰使を継承し、苗族鎮撫を主な任務として明朝に仕えた。播州宣慰使は黄平・草塘の2安撫司と真州・播州・白泥・余慶・重安・容山の6長官司を管轄し楊応龍の当地における権限は相当な大きさであった。また、土司は中央政府より、名目的な朝貢と定額の納税、そして常時の派兵が義務付けられていた。明朝の中央軍制が荒廃していくにつれて地方土着の土司の戦力比重が大きくなっていた<ref name="okano1971"/>。
明朝はこれらの非漢族の土地を統治するため、土着勢力の部族統率者や漢族系在地勢力を世襲的に[[土司]]・土官
に任命して間接統治を行った。楊氏も[[唐|唐代]]より[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]・明の各王朝で代々播州を根拠地としており、漢族・苗族の統治にあたった土司であった。在地権力者の一人として[[楊応龍]]は1572年([[隆慶]]6年)に宣慰使を継承し、苗族鎮撫を主な任務として明朝に仕えた。播州宣慰使は黄平・草塘の2安撫司と真州・播州・白泥・余慶・重安・容山の6長官司を管轄し楊応龍の当地における権限は相当な大きさであった。また、土司は中央政府より、名目的な朝貢と定額の納税、そして常時の派兵が義務付けられていた。明朝の中央軍制が荒廃していくにつれて地方土着の土司の戦力比重が大きくなっていた<ref name="okano1971"/>。
 
楊応龍は採木の提出等で有能な土司と評価されていたが、自己権力の増大を図りに五司七姓(黄平・草塘・白泥・余慶・重安の五司と田・張・袁・廬・譚・羅・呉の七姓)と称される他在地勢力から反発された。五司七姓は楊応龍は反逆したと上奏、1590年([[万暦]]18年)に貴州[[巡撫]]都御史の[[英夢熊]]は楊応龍の取調べを主張したが、四川巡按の[[李化龍]]は生苗からの防御のために播州土兵の戦力が必要であることから取調べには反対した<ref name="okano1971"/>。
1599年(万暦27年)、朝鮮情勢が解決に向かうと、明朝は[[遼東]][[巡撫]]へ転出していた李化龍を湖広川貴軍務総督兼四川巡撫として起用し、郭子章と共に播州の鎮圧に向かわせた。李化龍は、楊応龍の軍勢は14、5万はおり、対抗するためには四川・貴州・湖広の財源は不足しており、当年に戦費のための増税を実施した<ref name="okano1971"/>。
 
翌年の1600年(万暦28年)に楊応龍が龍泉を占領すると、重慶に駐屯していた李化龍は8路より各3万の軍勢を率いて進撃を行ったが、この時の兵士は3割が官兵で7割が土兵であったという<ref name="okano1971"/>。これらの軍勢には朝鮮で戦った[[劉テイ (明)|劉&#x7d8e;]]や[[陳リン|陳&#x7498;]]が動員され、その家丁には朝鮮で投降した日本兵(降倭)が鉄砲兵力として編入されており[[仏郎機砲]]などの火器と共に、弓矢にて武装していた楊応龍軍を圧倒した<ref name="kuba2002">久芳崇「16世紀末、日本式鉄砲の明朝への伝播--万暦朝鮮の役から播州楊応龍の乱へ」2002年</ref>。苗族は楊応龍と共に集い、同調して侵略を行っていたが、明朝による包囲が狭められると共に離反していった。楊応龍は海龍にて包囲され、籠城戦となり翌年の1601年(万暦29年)6月に愛妾2人と共に自殺し、楊応龍の乱は収束した<ref name="okano1971"/>。
 
== 出典 ==
41,398

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