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'''堀江 景忠'''(ほりえ かげただ、生年不詳 - [[天正]]4年([[1576年]])?)は、[[朝倉氏戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけて家臣[[武将]]。[[堀江景用朝倉氏]](かげもち)家臣。[[中務丞]]と称す。[[堀江景用]]の子。[[堀江利茂]]の父。
 
== 出自 ==
景忠の生年は明らかではないが、[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])の[[朝倉宗滴]]を総大将とする[[加賀一向一揆]]攻めに従軍、戦功をあげたことが見える。
 
[[永禄]]7年([[1564年]])に朝倉軍は加賀へ再度侵攻し、翌年、翌々年も[[一向一揆]]勢との合戦が続いたが、この最中、景忠は子の利茂と共に一向一揆に通じ、[[朝倉義景]]に対し謀叛を企てた。永禄10年([[1567年]])3月、堀江氏謀叛が噂にのぼると、3月12日、一向一揆勢が加賀から越前へ来襲し朝倉軍と激戦を繰り広げた。一方、堀江氏の館(あわら市下番)には3月18日に[[魚住景固]]・[[山崎吉家]]が大将として出陣、激しく攻め立てたが、容易に勝敗がつかず、結局、堀江父子を能登に亡命させることで事件の決着を見た。なお、[[朝倉景鏡]]の讒言により景忠父子が失脚させられたという説は、事前に一向一揆の攻撃が始まっていること、亡命後の景忠に対し[[顕如]]から感状が出されていることから疑わしいと言わざるを得ない
 
[[永禄]]10年([[1567年]])3月、堀江氏謀叛が噂にのぼると、3月12日、一向一揆勢が加賀から越前へ来襲し朝倉軍と激戦を繰り広げた。一方、堀江氏の館(あわら市下番)には3月18日に[[魚住景固]]・[[山崎吉家]]が大将として出陣、激しく攻め立てたが、容易に勝敗がつかず、結局、堀江父子を能登に亡命させることで事件の決着を見た。
 
なお、[[朝倉景鏡]]の讒言により景忠父子が失脚させられたという説は、事前に一向一揆の攻撃が始まっていること、亡命後の景忠に対し[[顕如]]から感状が出されていることから疑わしいと言わざるを得ない。
 
その後、景忠は「'''幸岩斎藤秀'''」と改名し、朝倉氏滅亡後、一向一揆が支配するところとなった越前に舞い戻り、杉津砦の守将をまかされるが、織田勢に寝返り、一揆勢を壊滅させた。