「サルヴァトーレ・シャリーノ」の版間の差分

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=== 第三期(1992 - 2004) ===
[[新ロマン主義音楽|新ロマン主義]]の流行が終わると、彼もそれを察知して「聞きにくい音響」に鞍替えした。「雲に捧げられた作品の間に」では「指がキーから離れる音」まで追求され、特殊奏法のマニエリスムからの脱却を図ろうとしている。[[マウリツィオ・ポリーニ]]によって初演された「ソナタ第5番」はあまりのコーダの演奏困難さ故に「コーダを書き換える」処置に追われ、これが元でポリーニとの縁がこじれる。ポリーニのためのピアノ協奏曲(「薄暗いレチタティーボ」)も一曲書き下ろしたものの、以後はイギリスのピアニストの[[ニコラス・ハッジス]]へピアノ独奏作品の紹介を全面的に託すこととなる。90年代には近作を中心に怒涛のCDリリースが行われた
 
「ソナタ第4番」は90年代に書かれた最も個性的な作品の一つであり、「[[トーン・クラスター]]」と「擬似アルペジョ」の二つの組み合わせのみで全曲が構成される特異なピアノ曲である。「音楽とは思えない素材」に対する固執はこの時期から強まり、「単一の楽器は特定の素材しか演奏しない」傾向が加速化する。「夜想曲」では沈黙の中を「擬似アルペジョ」がふらふらと舞うのみであり、痺れを切らして憤慨した聴衆の咳がCDに収録されている。この作品は同一コンセプトで現在までに6曲書かれており、場合によっては19世紀的なオクターブも使われて現在までに6曲書かれたいる
 
新たな音響への興味は止まず、「サックスのキークラップは『ほとんど聞こえないから100台持ってこい』」と言って、世界ではじめての100台のサックスでキークラップを行う作品を作曲した。2003年には構想から完成までに20年を要したオペラ「マクベス」で、その創作を集大成する。[[ジョルジュ・ビゼー|ビゼー]]や[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]などのクリシェと自己イディオムの混濁は、第二期までの快楽主義とは隔たりがある。
 
=== 第四期(2005 - ) ===
長年の懸案であった来日が実現するが、作風にほとんど変化はない。一つの試みが成功すると、すぐその路線で多作する傾向はそのままであり、彼のオーケストラ個展では「全く同じ音が」、「全く同じタイミングで」、「全く同じシチュエーションを共有する」作品が並ぶことすらある。「電話の考古学(2005)」では話し中のブザーから携帯電話の着信メロディーまで模倣するものの、構成感は年を経るにつれ散漫化或いはモザイク化へ向かっており、最近では華美さを避け、曖昧模糊とした音響を薄く延ばす楽器法に傾斜してきている。[[和泉式部]]の原作に基づくオペラ「ダ ゲロ ア ゲロ(2006)」や[[ヴァイオリン協奏曲]]「人工[[四季]](2006)」では人声を模した[[グリッサンド]]が頻出するが、沈黙に近い瞬間は徐々に減じている。「旅のノート(2003)」ではクラシカルなメロディがそのままバリトンによって担われており、ここでも沈黙は減少している。
 
ドナウエッシンゲン音楽祭2009のために「声による夜想曲の書(2009)」を出品するが、作品の評価は分かれた。
2008年に入って作曲されたリコーダーとオーケストラのための「四つのアダジオ(2008)」では、初演直後に拍手とブラヴォーと圧倒的多数のブーイングが乱れ飛んだ。休憩時間にシャリーノは放送局のブースに入り、「大変に、騒がしい初演となりました」というアナウンサーに対して、「30年前もこんな感じだったけれど、あの時は客が本気で殴りかかったんです」などと応答している。ドナウエッシンゲン音楽祭2009の出品作「声による夜想曲の書(2009)」ですら、賛否両論がはっきりと分かれた。
 
== エピソード ==
なお、リコルディ時代は英訳や独訳も受容に応じて付されていたが、RAI TRADE時代はそのような配慮は行われておらず、全文がイタリア語で書かれている。
*[[マウリツィオ・ポリーニ]]によって初演された「ソナタ第5番」はあまりのコーダの演奏困難さ故に「コーダを書き換える」処置に追われ、これが元でポリーニとの縁がこじれる。ポリーニのためのピアノ協奏曲(「薄暗いレチタティーボ」)も一曲書き下ろしたものの、以後はイギリスのピアニストの[[ニコラス・ハッジス]]へピアノ独奏作品の紹介を全面的に託すこととなる。
*「サックスのキークラップは『ほとんど聞こえないから100台持ってこい』」と言って、世界ではじめての100台のサックスでキークラップを行う作品を作曲した。
*2008年に入って作曲されたリコーダーとオーケストラのための「四つのアダジオ(2008)」では、初演直後に拍手とブラヴォーと圧倒的多数のブーイングが乱れ飛んだ。休憩時間にシャリーノは放送局のブースに入り、「大変に、騒がしい初演となりました」というアナウンサーに対して、「30年前もこんな感じだったけれど、あの時は客が本気で殴りかかったんです」などと応答している。ドナウエッシンゲン音楽祭2009の出品作「声による夜想曲の書(2009)」ですら、賛否両論がはっきりと分かれた
なお、*リコルディ時代は英訳や独訳も受容に応じて付されていたが、RAI TRADE時代はそのような配慮は行われておらず、全文がイタリア語で書かれている。
 
==参考文献==