「土岐頼忠」の版間の差分

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'''土岐 頼忠'''(とき よりただ)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町時代]]の[[武将]]、[[守護大名]]。[[美濃国|美濃]]守護。[[土岐頼清]](初代美濃守護[[土岐頼貞]]の子)の6男。[[土岐頼康|頼康]]、[[土岐頼雄|頼雄]]、[[土岐直氏|直氏]]の弟。妻は[[京極氏]]の娘。子に[[土岐頼益|頼益]]など。名は頼世、刑部少輔入道とも。官位は美濃守、[[刑部省|刑部少輔]]。
 
長兄頼康の存命時には美濃[[池田郡]]を拠点として兄を支えていたが、兄が死んで後を継いだ甥の美濃・[[伊勢国|伊勢]]守護[[土岐康行]]が3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の挑発に乗って挙兵すると、頼忠は幕府軍に味方して次男の頼益と共に康行の討伐に向かった。[[明徳]]元年([[1390年]])に康行は敗れて没落、美濃・伊勢守護職は取り上げられた([[土岐康行の乱]])。
 
義満は[[土岐氏]]の断絶も考えたが、[[雲渓支山]]のとりなしで思いとどまり頼忠を美濃守護職に任じた。義満は頼忠に雲渓支山へ御礼として在所を寄進するよう命じ、頼忠は美濃玉村保を寄進したという。以後、頼忠の土岐西池田家が土岐氏の主流となった。しかし、西池田家が惣領にとって代わったことには土岐庶流諸氏から反発が多く、頼忠は[[関ヶ原町|関ヶ原]]周辺に勢力を持つ[[国人]]の[[富島氏]]を[[守護代]]として重用している。
 
守護に就任した時点で高齢であり、応永2年([[1395年]])頃に守護職を頼益に譲り、2年後に死去した。
 
法名は正庵真兼。墓所は[[岐阜県]][[揖斐郡]][[池田町 (岐阜県)|池田町]]の[[禅蔵寺]]。
 
== 参考文献 ==