「カシオミニ」の版間の差分

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実際の設計は[[1971年]]の秋から本格化。当初は「3桁の加減乗除ならできる」という話からスタートした(これは当時[[ボウリング]]がブームだったため。ボウリングのスコア計算であれば3桁で間に合う)が、最終的に[[小数点]]以下の演算をあきらめることで「基本6桁、掛け算のみ12桁の演算が可能」というスペックがまとまった。また、当時の電卓としては珍しい[[電池]]駆動が可能であることも要件とされた。
 
<!--開発チームでは-->志村は「個人が計算するのはお金である」「個人が100万円以上の<!--買物-->お金を計算することは([[昭和]]40年代当時では)そうそうない」「お金の計算であれば小数点は使わない」とのことから「個人向けなら6桁小数点無しでも十分」の考えを持っていたが、当時は8桁の電卓が市場の主流を占めていたことから「まともに役員会にかけたのでは話が通らない可能性がある」として、当時同社常務の[[樫尾和雄]](現・同社社長)に内々に話を通し開発が進められた<ref>『電子立国日本の自叙伝』下巻 pp. 348-352</ref>。LSI設計は当時の志村のアシスタントの[[羽方将之]]が一人で担当した<ref>NHKスペシャル 『電子立国日本の自叙伝』 第4回 「電卓戦争」</ref>。
 
当時の電卓は、接点が密封され磁気で断続するリードスイッチを使っていたが、これを(現代の電卓と同じような)パネルスイッチにすることでキー部分のコストを{{分数|1|20}}にした<ref>『計算機屋かく戦えり』ハードカバー版 p. 403</ref>。LSI設計は当時の志村のアシスタントの[[羽方将之]]が一人で担当し、1971年の年の瀬に[[東京都|東京]]・[[立川市|立川]]のホテルにカンヅメになり三日三晩かけて回路図を書き上げた<ref>NHKスペシャル 『電子立国日本の自叙伝』 第4回 「電卓戦争」</ref>。
 
年が明けて1972年になると、2月には設計図を元に実際に[[モックアップ]]が作られ、製造原価が約4,500円となることが判明。そして<!--IC-->LSIの製造が[[日立製作所]]に委託され、6月には試作チップが完成し製造が本格化、8月の発表へと至った。なお、発売当初の定価(12,800円)は、発表当日の朝、当時同社社長だった[[樫尾忠雄]]が独断で決定したものであるという<ref name="p359">『電子立国日本の自叙伝』下巻 p. 359</ref>。
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当時としては驚異的な低価格で発売されたカシオミニは発売当初から大ヒットを記録し、発売後10ヶ月で販売台数が100万台を突破、翌[[1973年]]末には販売台数は200万台に達した<ref name=p359/>。その後、他社からも同じような低価格の個人向け電卓が発売され、激しい価格競争が繰り広げられるが(カシオミニも[[1974年]]に入ると定価を切り下げるようになり、[[1976年]]4月には定価が3,900円まで下げられた)、最終的にはシリーズ全体の累計生産台数で約1,000万台を記録している。
 
『答一発、カシオミニ』のキャッチフレーズで知られるテレビCMも当時話題となったが、これもカシオの戦略の一つであった。カシオではそれまで直販部隊による訪問販売が主体であった営業体制をカシオミニの発売に伴い大きく変更し、全国の主な文具卸商を独自に組織化した流通網を構築し、全国の文具店でカシオの電卓が販売される体制を作り上げた上で、テレビCMにより一般顧客の購買意欲を煽る戦略を取った。最終的に激しい価格競争の中カシオが電卓市場で生き残れた要因の一つに、この文具店による販売チャネル構築が挙げられることがある<ref>『電子立国日本の自叙伝』下巻 p. 364</ref>。ちなみに『答一発』のキャッチフレーズは、CMソングの作詞を手がけた[[伊藤アキラ]]が[[春闘]]の『一発回答』ののぼりを見て思いついたものだという
 
当時は[[テキサス・インスツルメンツ]]社の電卓用LSIチップを使用した、にわか電卓メーカーが乱立していたが、このカシオミニの登場により電卓市場は飽くなき価格競争の場へと変貌し、競争に追いつけない数多くの電卓メーカーが撤退を余儀なくされた。