「ザクセン王国」の版間の差分

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[[アウステルリッツの戦い]]で[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]が敗北したことで、[[神聖ローマ帝国]]は[[1806年]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]によって解体された。ザクセンも独立した王国とされ、時の[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]]フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン国王[[フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]となった。この時独立した王国群は、フランスと[[ライン同盟]]を構成した。ライン同盟の寿命は短く、[[1813年]]にナポレオンがロシアで敗北すると解体した。またフリードリヒ・アウグストは[[ワルシャワ公国]]の公も兼ねたが、この国家も同様に解体した。[[1815年]]の[[ウィーン会議]]の結果、ザクセン王国は[[ドイツ連邦]]に加入したが、北半分の領土を[[プロイセン王国]]に割譲させられることになった(割譲された領土はプロイセンの[[ザクセン州 (プロイセン)|ザクセン州]]となった)。現在の[[ザクセン州]]はこの時に残った領土に相当する。
 
[[1848年革命]]の際には、[[ライプツィヒ]]を中心として自由化運動が広まった。こうした中で成立したブラウン内閣は、言論・出版の自由を保障し、封建的諸特権の廃止を実現させた。また、ザクセン王国内における[[制限選挙]]を廃止、21歳以上の男に[[普通選挙]]権を認めた。同年末の議会選挙では[[スラヴ人|スラヴ系]]少数民族である[[ソルブ人]]協会の代表も3人選出された。しかしこうした改革の潮流は、オーストリアやプロイセンでも反動化が進む中で鎮圧されていった。
 
[[1866年]]の[[普墺戦争]]では中立をとろうとしたが、結局[[オーストリア帝国|オーストリア]]側についた。そのため、プロイセン軍による占領を受けて降伏を余儀なくされた。ザクセン王国は[[ハノーファー王国]]、[[ヘッセン選帝侯国]]、[[ナッサウ公国]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]などのようにプロイセンに併合されることはなかったが、形式上の自立のみを残してプロイセンに従属し、[[北ドイツ連邦]]に加入した。さらに[[1871年]]の[[普仏戦争]]で北ドイツ連邦は[[ドイツ帝国]]となり、ザクセン王[[ヨハン (ザクセン王)|ヨハン]]は、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]に忠誠を誓った。[[第一次世界大戦]]中の[[1918年]][[11月3日]]、[[キール (ドイツ)|キール]]軍港の反乱をきっかけに[[ドイツ革命]]が勃発し、[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は退位を余儀なくされた。ドイツ帝国は崩壊して[[ヴァイマル共和政]]が布かれ、最後のザクセン王[[フリードリヒ・アウグスト3世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト3世]]もまた、1918年[[11月13日]]に退位に追い込まれた。