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'''里見 義弘'''(さとみ よしひろ)は[[安房]]の[[戦国大名]]。[[里見氏]]の当主。
 
== 経歴 ==
[[永禄]]年間初めに父より実権を譲られて、義舜から義弘へと改名したと言われている。
 
永禄4年([[1561年]])、[[上杉謙信]]の[[北条氏康]]攻めに呼応したり、永禄7年([[1564年]])の[[第二次国府台合戦]]で[[北条綱成]]と戦うなど、父・義堯と同様に[[後北条氏]]と徹底して対立した。しかし、この[[国府台合戦|第二次国府台合戦]]で北条軍に大敗して安房に退却する。更に北条水軍などの攻撃と[[正木時忠]]、[[土岐為頼]]、[[酒井敏房]]ら[[上総国]]の有力領主の離反によって上総の大半を喪失してしまった。
 
このため、里見氏の勢力は一時、衰退したが3年後の永禄10年([[1567年]])、義弘は[[三船山の戦い]]で北条軍を撃破して勢力を挽回し、[[上総国|上総]][[佐貫城]]を本拠地として安房から[[上総]]、国・[[下総]]にかけて一大領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を築き上げたのである。
 
天正5(年([[1577)]])、これまでの態度を一転、北条家と和を結んだ([[房相一和]])。
 
天正6年(1578年)、上杉謙信の後を追うように[[久留里城]]にて急死した。だが、遺言に弟(庶長子ともいわれる)・[[里見義頼|義頼]]と嫡男・[[里見淳泰|梅王丸]]への領土分割を命じた事から、死後に里見氏の分裂を招く事になった。
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== 関連項目 ==
*[[里見氏]]
 
 
{{先代次代|[[里見氏#安房里見氏|安房里見氏当主]]||[[里見義堯]]|[[里見義頼]]<br>[[里見淳泰]]}}