「野田城 (三河国)」の版間の差分

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*[[1561年]] [[桶狭間の戦い]]の後、[[今川氏]]を離反した定盈は、今川勢に攻囲され開城退去。
*[[1562年]] 定盈が夜襲で奪回するも、損壊の激しい野田城は修築に刻を費やされた。定盈は、仮本拠を大野田城に定めている。
*元亀2年([[1571年]]) [[武田氏]]の遠江・三河侵攻において武田家臣[[山県昌景]]・[[小笠原信嶺]]らの襲来により、大野田城は大破炎上。同年12月、[[菅沼定盈|定盈]]は修築中の野田城を再び本拠としたという。近年は元亀2年の遠江・三河侵攻については根拠となる文書群の年代比定が再検討され、一連の経緯は天正3年の[[長篠の戦い]]の前提である可能性が指摘されている。
*[[1573年]] [[野田城の戦い]]。水の手を断たれて、城主・定盈は開城降伏する。
*[[1590年]] [[徳川家康]]が[[関東]]へ移封されると、定盈も付随。その後、[[吉田城 (三河国)|吉田城]]に入った[[池田輝政]]の代官が[[新城]]を利用し、野田城を破却。廃城となった。