「渋谷天外 (2代目)」の版間の差分

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[[楽天会]]の主宰者,[[渋谷天外 (初代)|初代渋谷天外]]の長男として[[京都市]]で生まれる。8歳で同劇団で初舞台を踏む。父の死去(10歳で死別)後、楽天会は解散する。
 
しばらく舞台から離れていたが、[[1922年]](大正11年)「[[志賀廼家淡海]]一座」に加わる。[[1923年]](大正12年)から、[[曾我廼家十郎]]のすすめで劇作にも意欲的に取り組んだ。この時、十郎からは「しっかりものを書くんやで。出来は悪うてもええ、自分のもんを書け。ただし泥棒はあかん、癖になるさかいな。」と教えられた。後年天外は「何でも、ようメモはとります。・・・けど、実際に役に立つのは、十分の一ですな。・・・言いたいことを吐きだすのが一番と違いますか。」と小林信彦のインタビューに答えている。(小林信彦「日本の喜劇人」)
 
[[1928年]](昭和3年)、[[曾我廼家十吾]]、[[石川薫]]らと[[松竹家庭劇]]を結成し、[[角座]]で旗揚げ公演を行う。翌[[1929年]](昭和4年)、'''2代目渋谷天外'''を襲名し、全国的に活躍する。
戦後、[[1946年]](昭和21年)松竹家庭劇を脱退し、劇団「すぃーとほーむ」を結成するが、[[1948年]](昭和23年)、「[[五郎劇]]」、「松竹家庭劇」と合同して、「[[松竹新喜劇]]」を結成し、[[中座]]で初公演を行う。
 
曾我廼家十郎、五郎、十吾、渋谷天外、藤山寛美という流れは(演劇表現の上での)保守派と革新派が交互に現れているが、天外は革新派にあたり、実現はしなかったがチェーホフの翻案なども念願していた。楽屋では、原稿用紙、ノート類、演劇専門書が山の様に積まれるなど学究肌の面があった。天外自身、自作自演について、自制力が必要と説き「自分で脚本書いて、演出して、しかも主役をやったら、どないなりますか?お山の大将、独裁者です。」として、その悪しき例に[[チャップリン]]の晩年の作「[[ニューヨークの王様]]」を挙げている
 
[[1956年]](昭和31年)に十吾は退団するが、自身の弟子的存在で、以後、人気俳優となる[[藤山寛美]]とのコンビで人気を呼ぶ。