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[[Image:Petipa.jpg|175px|thumb|right|マリウス・プティパ]]
'''マリウス・プティパ'''('''Marius Petipa'''、[[1818年]]([[1822年]]など異説あり)[[3月11日]]、[[マルセイユ]] - [[1910年]][[7月14日]]、[[クリミア半島|クリミア]]・グルズフ)は[[ロシア帝国|帝政ロシア]]で活躍した、[[フランス]]人[[バレエダンサー]]・[[振付師]]・台本作家。現代の[[クラシックバレエ]]の基礎を築いた人物として知られである。日本語では'''マリユス'''とも表記。
 
==生涯==
[[マルセイユ]]に生まれる。父はバレエ振付師ジャン=アントワーヌ・プティパ、母は女優、ヴィクトリンヌ・モーレル。兄はバレエダンサー・振付師の[[リュシアン・プティパ]]。生まれたときには'''Michel-Victor-Marius-Alphonse'''と名付けられた。[[1831年]]に[[ブリュッセル]]のモネ劇場で初めて舞台に立つ。その後[[ベルギー独立革命]]を逃れて[[1835年]]ごろからは[[ボルドー]]でダンサーとして活躍し、[[1838年]]ごろからは[[ナント]]で活動する。[[1839年]]の北米巡業の後、再びボルドーに戻るも、興業主の破綻により[[1843年]]より4年間、[[マドリッド]]に活動の拠点を移す。
 
[[1847年]]、[[サンクトペテルブルク]][[マリインスキー劇場]]にてプリンシパル・ダンサーとして契約する。プティパがスペインを去ったのは、スペインでの情事のためとも言われる。その後はマリインスキー劇場でダンサー・振り付け師・台本作家として活躍を続け、[[1869年]]に同劇場のバレエ監督に就任。[[1904年]]の退任まで「[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]」以下の三大バレエと呼ばれる[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]作品をはじめ、数多くの作品を発表した。また[[1855年]]から[[1887年]]の間、付属バレエ学校の校長も勤めている
 
晩年はクリミア半島のグルズフで療養にあたり、1910年、この世を去った。
 
==作品==
プティパは60近くの作品を制作しており、その中には現在でも上演されている作品も多い。中でも、チャイコフスキーの音楽による「[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]」、「[[くるみ割り人形]]」、「[[白鳥の湖]]」や、[[レオン・ミンクス]]の音楽による「[[ドン・キホーテ#バレエ|ドン・キホーテ]]」などは、世界中で[[バレエ#クラシック・バレエ|クラシックバレエ]]の古典レパートリーとして上演されている。
 
==参考文献==