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[[永徽]]元年([[650年]])9月、車鼻可汗が高侃によって捕えられると、唐はその余衆と歌羅禄(カルルク)の左廂を鬱督軍山([[ウテュケン山]])に移住させて[[渾河州]]とし、渾河[[刺史]]に統領させ、歌羅禄(カルルク)の右廂を[[狼山都督府]]とし、狼山[[都督]]に統領させた<ref>史料によっては左廂と右廂が逆の場合がある。いずれにせよ唐がカルルクを[[アルタイ山脈]]の西から[[ウテュケン山]]([[ハンガイ山脈]])に移住させたのは、[[薛延陀]]部の南下を防ぐ目的があったためと思われる。</ref>。唐はこの後、[[単于都護府]]と[[瀚海都護府]]を設置した。
こうして歌羅禄(カルルク)の部衆は[[モンゴル高原]]のウテュケン山(鬱督軍山)に移住したが、[[アルタイ山脈]]の西に残った歌羅禄(カルルク)もいた
顕慶2年([[657年]])、唐は謀落部を[[陰山都督府]]とし、熾俟部を[[大漠都督府]]とし、踏実力部を[[玄池都督府]]とし、各酋長を用いて都督とした。唐は後に熾俟部を分けて[[金附州]]を置く。三姓葛邏禄は東西[[突厥]]間に在って、常に趨勢を眺めて附叛を繰り返した。その後、南に移動して「三姓葉護(ウチュ・ヤブグ)」と号し、次第に強盛となり、[[廷州]]以西の諸突厥は皆これを畏れるようになった。
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