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彼女は生涯に3度結婚したため、その都度名前が変わっている。最初は[[1934年]]にマーシャル・ファビアン(Marshall Fabyan)と結婚したが、6年後の[[1940年]]に同じテニス選手の[[エルウッド・クック]]([[1914年]] - [[2004年]])と2度目の結婚をし、その間に全米選手権の女子シングルスで2勝を挙げた。そのクックとも間もなく離婚し、1951年にジェリー・ダンジグ(Jerry Danzig)と3度目の結婚をしている。エルウッド・クックとの結婚期間中に全米女子シングルス優勝があったことから、テニス文献では「サラ・ポールフリー・クック」('''Sarah Palfrey Cooke''')の名前で紹介される頻度が高いが、日本語版の本記事では旧姓の「サラ・ポールフリー」の名前で記述する。
 
サラ・ポールフリーはアメリカの“レディー・テニス”と呼ばれた[[ヘイゼル・ホッチキス・ワイトマン]]の指導を受け、[[1927年全米テニス選手権 (テニス)|1927年]]から全米選手権に出場し始めた。すぐに彼女は観客の人気者になり、晴れやかな笑顔や、試合後の優雅な態度などが注目されるようになった。[[1930年全米テニス選手権 (テニス)|1930年]]の全米選手権で、[[ベティ・ナットール]]([[イギリス]])と組んで女子ダブルス初優勝を果たす。[[1932年全米テニス選手権 (テニス)|1932年]]に[[フレッド・ペリー]]と組んで全米選手権の混合ダブルスに初優勝し、[[ヘレン・ジェイコブス]]と組んだ女子ダブルスと合わせて2部門を制覇した。[[1934年全仏テニス選手権 (テニス)|1934年全仏選手権]]で[[フランス]]に初遠征し、ジェイコブスとのダブルスで準優勝したが、シングルスは3回戦で前年度優勝者の[[マーガレット・スクリブン]]([[イギリス]])に敗れた。[http://www.fft.fr/rolandgarros/pdfpalmares/femmes1934_fra.pdf] [[1934年全米テニス選手権 (テニス)|1934年全米選手権]]で、ポールフリーは初めて女子シングルス決勝に進出したが、当時のダブルス・パートナーだったジェイコブスに 1-6, 4-6 で敗れた。この時までは「サラ・ポールフリー」の名前であったが、この後マーシャル・ファビアンと最初の結婚をした。
 
[[1935年全米テニス選手権 (テニス)|1935年]]の全米選手権で、サラ・ファビアンは女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門で決勝に進出するが、シングルス決勝では2年連続で[[ヘレン・ジェイコブス]]に敗れた。ファビアンは2年連続で女子シングルス準優勝者になり、ジェイコブスは4連覇を達成した。女子ダブルスのパートナーはジェイコブスで、混合ダブルスでは[[エンリケ・マイアー]]([[スペイン]])と組んだ。それから、彼女は[[ウィンブルドン選手権]]のダブルスに活躍の場を広げる。[[1936年ウィンブルドン選手権]]の混合ダブルスで、ファビアンは[[ドン・バッジ]]とペアを組み、決勝で地元イギリスペアの[[フレッド・ペリー]]&[[ドロシー・ラウンド]]組に敗れた。[[1936年全米テニス選手権 (テニス)|1936年全米選手権]]まで、ファビアンは女子ダブルスでジェイコブスとコンビを組んだが、全米選手権で女子ダブルス3連覇を逃し、この組み合わせを解消する。[[1937年全米テニス選手権 (テニス)|1937年]]から[[1940年全米テニス選手権 (テニス)|1940年]]まで、ファビアンは[[アリス・マーブル]]と組んで全米女子ダブルス4連覇を達成した。ファビアンとマーブルは、ウィンブルドン選手権でも[[1938年ウィンブルドン選手権|1938年]]・[[1939年ウィンブルドン選手権|1939年]]に女子ダブルス2連覇を達成した。[[1938年ウィンブルドン選手権|1938年ウィンブルドン]]では2年ぶり2度目の混合ダブルス決勝進出もあり、パートナーは[[ドイツ]]の[[ヘンナー・ヘンケル]]と組んだが、[[ドン・バッジ]]とマーブルの組に敗れている。
 
[[1939年全仏テニス選手権 (テニス)|1939年全仏選手権]]の混合ダブルスで、サラ・ファビアンは[[エルウッド・クック]]とペアを組んで優勝した。これを契機に、彼女はクックとの関係を深めていく。[[1939年]]9月に勃発した[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]の影響で、[[全仏オープン|全仏選手権]]と[[ウィンブルドン選手権]]は開催中止となったが、[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]だけは戦時中も続行された。[[1940年全米テニス選手権 (テニス)|1940年]]の全米選手権を最後に、ダブルス・パートナーのマーブルが「プロテニス選手」に転向する。サラ・ポールフリーはこの年にマーシャル・ファビアンと離婚し、クックと2度目の結婚をした。再婚して「サラ・ポールフリー・クック」の名前になった後、彼女はようやく[[1941年全米テニス選手権 (テニス)|1941年]]の全米選手権で宿願の女子シングルス優勝を果たした。6年ぶり3度目の女子シングルス決勝で、ポールフリー・クックは[[ポーリーン・ベッツ]]に 7-5, 6-2 で快勝した。15年の歳月を経てようやく夢を実現させた彼女は、優勝祝いとして家族での飛行機旅行を楽しんだ。その後彼女の妊娠が分かり、[[アメリカ海軍]]大佐として従軍した夫のエルウッドとの約束もあり、彼女はしばらく全米選手権から遠ざかった。
 
終戦の年、[[1945年全米テニス選手権 (テニス)|1945年]]にポールフリー・クックは全米選手権に戻り、再び[[ポーリーン・ベッツ]]と女子シングルス決勝を戦った。4年ぶり2度目の対戦で、ポールフリー・クックはベッツを 3-6, 8-6, 6-4 で振り切り、全米選手権の女子シングルス2勝目を獲得した。ベッツは[[1941年全米テニス選手権 (テニス)|1941年]]から[[1946年全米テニス選手権 (テニス)|1946年]]まで6年連続の女子シングルス決勝に進み、そのうち4度優勝したが、1941年と1945年の2度の準優勝がどちらもポールフリー・クックへの敗戦だったことから、対戦相手のことを「彼女は私にとってとげのような人でした」と回想している。[[1945年]]には、[[シンシナティ]]市で行われていた「トリステート選手権」(''Tri-State Championships'':現在の[[シンシナティ・マスターズ]])で、夫のエルウッドとともに男子ダブルスにエントリーしたこともあり、夫妻は男子ダブルス決勝まで勝ち進んだ。
 
全米選手権女子シングルスで2勝目を挙げた後、彼女は[[1946年]]からプロテニス選手になった。この後エルウッド・クックと離婚し、[[ニューヨーク]]の実業家ジェリー・ダンジグと3度目の結婚をした。選手生活から引退した後、彼女はビジネスの分野でも成功を収め、テニス関連の著述活動にも携わった。[[1963年]]に[[国際テニス殿堂]]入り。[[1996年]][[2月27日]]、サラ・ハモンド・ポールフリー・ファビアン・クック・ダンジグは[[ニューヨーク]]で83年の生涯を終えた。
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* [[全仏オープン|全仏選手権]] 混合ダブルス:1勝(1939年) [女子ダブルス準優勝1度:1934年]
* [[ウィンブルドン選手権]] 女子ダブルス:2勝(1938年・1939年) [混合ダブルス準優勝2度:1936年・1938年]
 
== 外部リンク ==
* {{ITHF|sarah-palfrey-danzig|サラ・ポールフリー}}
== 参考文献 ==
* Martin Hedges, “''The Concise Dictionary of Tennis''” (コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3
* [[ランス・ティンゲイ|Lance Tingay]], “''100 Years of Wimbledon''” (ウィンブルドンの100年史) Guinness Superlatives Ltd., London (1977) ISBN 0-900424-71-0
 
== 外部リンク ==
* {{ITHF|sarah-palfrey-danzig|サラ・ポールフリー}}
 
{{Navboxes|title=サラ・ポールフリー 獲得タイトル
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{{DEFAULTSORT:ほおるふりい さら}}
[[Category:アメリカ合衆国の女子テニス選手]]
[[Category:国際テニス殿堂入りの人物]]
[[Category:マサチューセッツ州の人物]]