「オーストリア革命」の版間の差分

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=== 革命の終焉 ===
しかし社会民主党が下からの運動の機先を制して次々と開明的社会政策を打ち出したことは、かえって「社会化」の担い手となるべき労働者評議会運動の力を削ぐこととなり、ブルジョワ勢力の反対もあって「経営評議会」以上の「社会化」政策は実現されなかった。また、バウアーが社会主義実現の前提としていたアンシュルスもドイツ側の消極的態度、[[連合国]]の拒否もあって[[サン=ジェルマン条約]]で公式に否定された。バウアーは1919年7月に外相、同年10月に社会化委員長を辞任、社会民主党自体も[[1920年]]10月には労働者評議会の要求に応えて政権から離脱し、ここにオーストリア革命は終息した。以後、社会民主党は両大戦間期においては再び国政で政権の座に就くことはなかったが、1919年以降[[1934年]]の[[2月内乱]]で党組織が壊滅するまで、党の基盤であるウィーンの市政を支配して実験的な社会政策を推進し、[[赤いウィーン]]と称されることとなった。
 
== 関連項目 ==