「和田夏十」の版間の差分

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==来歴・人物==
茂木由美子は、戦後間もなく[[東宝|東宝撮影所]]で通訳をしていた頃、[[脚本]]の[[校正]]をしたのがきっかけで市川崑と知り合った。市川は文才とアイディアに満ちあふれる茂木を愛し、2人は1948年に結婚。茂木は以後40年近くにわたって市川の生活を支えるかたわら、脚本家・和田夏十としてその生涯でほとんどの市川作品の脚本を手がけるという、文字通り公私における市川のパートナーだった。第1回監督作品「眞知子より」以来、「東京オリンピック」までのほとんど全作品の脚本に携わっている。「細雪」の最後のシーンの脚本が遺作となった。
 
そもそも「和田夏十」という名は、東宝撮影所時代に市川と茂木が共同執筆するために考案した[[ペンネーム]]だった。「和田」は茂木が[[日本放送協会|NHK]]の[[和田信賢]]アナウンサーのファン、「ナット」は市川が[[イギリス]]の二枚目俳優[[ロバート・ドーナット]]のファンだったことに由来。その後1951年の『[[恋人 (1951年の映画)|恋人]]』で市川が「脚本の才能ではとても妻に及ばない」とこれを茂木に譲り、以後は彼女専用のペンネームになったという経緯がある。
 
その後市川がどうしても和田と共同執筆をしたい場合には、「久里子亭」<small>(くりすてい)</small>というペンネームを用いた。これは市川が[[アガサ・クリスティ]]を崇拝していたからで、和田の文才を敬うことに変わりはない、という市川の謙虚さがそこには言い含められてい由来する。
 
和田夏十の名はほぼすべて<!--、映画&テレビを問わず、全 → されていないものもある -->ての市川作品にクレジットされている<small><ref>市川が深く関わったテレビシリーズ『[[木枯し紋次郎]]』では主題歌『誰かが風の中で』の作詞でクレジットされている。</ref></small>。[[乳癌]]発症後は闘病で脚本執筆が思うようにできない時期もあったが、それでも市川にさまざまなアドバイスをして和田風の脚本を書かせており、クレジットの有無にかかわらず和田夏十は市川映画と不可分の存在だった。
 
市川は自己の監督作品が称賛されると、「それは、夏十さんの功績です」と答えるのが常だった。実際2人の関係には「夫婦」や「同僚」のそれを越えた、「同志」のようなものがあった。
 
18年間の乳がんとの闘病の末、[[1983年]]死去。62歳だった。
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和田の死後、市川の願いもあって、『和田夏十の本』が刊行された。 和田が残した数多くの脚本の中から代表作の『黒い十人の女』と『炎上』を収録し、これに未発表のエッセイ、創作、詩、評論などを加えた作品集で、友人だった詩人の[[谷川俊太郎]]が作品の選択と序文の執筆を行っている。
 
また、脚本家としての作品以外にも、テレビドラマ「シリーズ『[[木枯し紋次郎]]の主題歌「だれ『誰かが風の中での作詞を担当し、[[上條恒彦]]の歌でヒットした。
 
==主な作品==