「和田夏十」の版間の差分
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==来歴・人物==
茂木由美子は、戦後間もなく[[東宝|東宝撮影所]]で通訳をしていた頃、[[脚本]]の[[校正]]をしたのがきっかけで市川崑と知り合った。市川は文才とアイディアに満ちあふれる茂木を愛し、
そもそも「和田夏十」という名は、東宝撮影所時代に市川と茂木が共同執筆するために考案した[[ペンネーム]]だった。「和田」は茂木が[[日本放送協会|NHK]]の[[和田信賢]]アナウンサーのファン、「ナット」は市川が[[イギリス]]の二枚目俳優[[ロバート・ドーナット]]のファンだったことに由来。その後1951年の『[[恋人 (1951年の映画)|恋人]]』で市川が「脚本の才能ではとても妻に及ばない」とこれを茂木に譲り、以後は彼女専用のペンネームになったという経緯がある。
その後市川がどうしても和田と共同執筆をしたい場合には、「久里子亭」
和田夏十の名はほぼすべ
市川は自己の監督作品が称賛されると、「それは、夏十さんの功績です」と答えるのが常だった。実際
18年間の乳がんとの闘病の末、[[1983年]]死去。62歳だった。
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和田の死後、市川の願いもあって、『和田夏十の本』が刊行された。 和田が残した数多くの脚本の中から代表作の『黒い十人の女』と『炎上』を収録し、これに未発表のエッセイ、創作、詩、評論などを加えた作品集で、友人だった詩人の[[谷川俊太郎]]が作品の選択と序文の執筆を行っている。
また、脚本家としての作品以外にも、テレビ
==主な作品==
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