「ユーゴスラビア紛争」の版間の差分

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== 経緯 ==
[[画像:Former Yugoslavia 2006.png|thumb|right|450px|ユーゴスラビアの地図。黄色が[[スロベニア]]、が[[クロアチア]]、濃灰色濃緑灰色が[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]](灰色は[[スルプスカ共和国]]、濃灰色は[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]])、ピンクと赤が[[セルビア]](ピンクは北側が[[ヴォイヴォディナ]]自治州)、濃赤薄青色が[[コソボ]]、薄緑色が[[モンテネグロ]]、濃水オレンジ色が[[マケドニア共和国]]である。]]
[[画像:Ethnic Clensing.JPG|thumb|right|250px|被害にあった建物]]
多民族国家のユーゴスラビアは[[第二次世界大戦]]では[[ドイツ]]、[[イタリア]]に支配されていたが、戦後に[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]勢力を率いる指導者の[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]によって独立を達成する。この国は後に「七つの[[国境]]、六つの[[共和国]]、五つの[[民族]]、四つの[[言語]]、三つの[[宗教]]、二つの文字、一つの[[国家]]」といわれるほどの多様性を内包していた。