「剛竜馬」の版間の差分

三度[[フリーランス]]となった剛は米マットに活路を求め、設立間もない[[ECW]]で[[ハードコアマッチ]]にも挑んだ。帰国後は[[国際プロレスプロモーション|IWA格闘志塾]]の伝で『[[屋台村プロレス]]』で酔客相手に[[レスリング・ユニオン]]のセミプロとの試合をこなす有様だったが、[[ターザン山本|一部マスコミ]]の支援を受け、[[1993年]]8月に一人一党の『[[剛軍団]]』を旗揚げ。[[ジェシー・バー]]を相方に、クラシカルな正統派プロレスリングを標榜し、『'''厚木プロレス'''』名義で自主興行を地元で打ったり<ref group="†">ご当地プロレス団体の嚆矢であった</ref>、小規模な地方巡業を細々と行ったりしたが、執拗に再戦を呼び掛けた藤波からは「二度と名前を出さないで貰いたい」と絶縁宣言されてしまう。
 
そんな苦境の中、[[1994年]]8月1日の後楽園ホール自主興行で、自らの志向とは正反対の怪奇派レスラー・[[宇宙魔神X]]<ref group="†">[[中の人]]正体は[[島田宏 (プロレスラー)|島田宏]]</ref>とのシングルマッチを含むダブルヘッダー<ref group="†">2連戦の第1試合は[[チャボ・ゲレロ]]、[[ビリー・ジャック・ヘインズ]]組に剛・バー組が勝利し、CWUSA認定インターナショナル・タッグチャンピオンを防衛したものの、剛が首を負傷した</ref>が決定。「あんなオモチャ野郎に負けるわけにはいかない」と昔ながらの山篭り特訓に励み、試合当日は場外乱闘で何度も「'''[[ショア]]'''」と叫び、椅子、モップやチリトリなどを掲げながらアピールしての攻撃に、会場のファンは大声援。『'''プロレスバカ'''』('''PB''')<ref group="†">会場で「バカ」コールが起きるようになり、剛も「見る方のプロレスバカの皆さん」とマイクアピールで応酬した</ref>なるニックネームが定着したのは、この試合の前後である。
 
「プロレスバカ」のちょっとしたブームが起きる中で、格闘技バラエティー番組『[[リングの魂]]』(テレビ朝日)にも、数回連続で出演。これは同番組で注目を集めていた(剛自身の先輩でもある)アニマル浜口に挑戦する企画で、「出演を直訴する手紙を自筆で送った」ものだったが、宛先には『リングの'''塊'''』と書かれていた。
 
[[1996年]]1月16日のレスラー生活25周年記念後楽園ホール大会に向けて、妻と2人の子供と共にポスター貼りをする模様が専門誌や『[[FIGHTING TV サムライ#沿革|バトルウィークリー]]』([[テレビ東京]]『[[激生!スポーツTODAY#「スポーツTODAY」時代|スポーツTODAY]]』の1コーナー)で取り上げられたことから、新スポンサーも獲得。個人プロダクション『[[冴夢来プロジェクト]]』<ref group="†">当て字で「さむらい」と読む</ref>を2月21日に設立、4月17日の後楽園ホール大会以降は[[新格闘プロレス]]と提携して『[[藤拓地所]]<ref group="†">剛と決裂後は[[IWA・JAPAN]]のスポンサーになる</ref>プレゼンツ・[[冴夢来プロレス]]』を名乗り、弁当付きの無料プロレスという太っ腹な企画で関東一円を巡業した。勢いで[[PRIDE]]参戦さえ表明したが、スポンサーと衝突して1年程で崩壊した。この時代に入門した[[ミノワマン|美濃輪育久]]は、剛の最後の弟子である。
 
===現役時代末期===
==== 迷走期 ====
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