「名護屋城」の版間の差分

編集の要約なし
|tower_struct = 5重7階(非現存)
|builders = 豊臣秀吉
|build_y = [[1591年]]
|revamp = ''なし''
|rulers = 豊臣氏
|reject_y = [[1598年]]
|remains = 石垣、空堀
|cultural asset = 国特別史跡
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[[画像:hizen-nagoyajo_stereo.jpg|thumb|350px|名護屋城の[[ステレオグラム|ステレオ]]空中写真(1977([[1977]] {{国土航空写真}}]]
'''名護屋城'''(なごやじょう)は、[[肥前国]][[松浦郡]]名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡[[鎮西町]]・[[呼子町]])、[[東松浦郡]][[玄海町]])にあった[[城]]。[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役]]に際し築かれた。国の[[特別史跡]]に指定されている。[[平成]]18年([[2006年]]には[[日本100名城]](87番)に選定された。
 
 
== 概要 ==
名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には[[松浦党]]の交易拠点の一つであった。ここにはもともと[[松浦党]]の旗頭・[[波多氏]]の一族である名護屋氏の居城、[[垣添城]]があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
 
名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170000平方メートルにわたり築かれた[[平山城]]の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた<ref>学習研究社編『【決定版】図説 よみがえる名城 漆黒の要塞 豊臣の城』 [[学習研究社]] [[平成]]20年([[2008年]])</ref>。
 
秀吉の死後、大陸進攻は中止され城は廃城となったと考えられており、建物は[[寺沢広高]]によって[[唐津城]]に移築されたと伝わる<ref>平井聖監修『城』(九州沖縄 8) 毎日新聞社 平成8年([[1996年]])</ref>。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている<ref>中井均・三浦正幸監修「城を復元する」学習研究社編『よみがえる日本の城30』 学習研究社 平成18年([[2006年]])</ref>。
 
* [[大正]]15年([[1926年]])[[11月4日]]、「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の[[史跡]]に指定される。
* [[昭和]]30年([[1955年]])[[8月22日]][[特別史跡]]に指定された。
* [[平成]]18年([[2006年]])4)[[4月6日]]、[[日本100名城]](87番)に選定され、平成19年([[2007年]])6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
 
[[黒澤明]]監督による『[[乱 (映画)|乱]]』(1985(昭和60([[1985年]])公開)のロケ地の一つに、名護屋城が選ばれ撮影が行われた。
 
== 名称 ==
[[黒澤明]]監督による『[[乱 (映画)|乱]]』(1985年公開)のロケ地の一つに、名護屋城が選ばれ撮影が行われた。
史跡名称は、「名護屋城跡並陣跡」であるが、鎮西町教育委員会の堀苑孝志は、陣跡以外の遺物や遺跡の様子から、より包括的な名称として「'''肥前名護屋軍事都市遺跡'''」という名称を提唱している<ref>笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』 文英堂, 平成12年([[2000年,]]) 37頁</ref>。
==名称==
史跡名称は、「名護屋城跡並陣跡」であるが、鎮西町教育委員会の堀苑孝志は、陣跡以外の遺物や遺跡の様子から、より包括的な名称として「'''肥前名護屋軍事都市遺跡'''」という名称を提唱している<ref>笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂,2000年,37頁</ref>。
 
== 歴史・沿革 ==
[[加藤清正]]、寺沢広高が[[普請奉行]]となった。[[九州地方|九州]]の諸[[大名]]を中心に動員し、突貫工事で8か月後の[[文禄]]元年([[1592年]])3月に完成した。規模は当時の城郭では[[大坂城]]に次ぐ広壮なものであった。本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に5重7階の[[天守]]が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、天守に葺かれていたものと考えられている。城郭の周辺には各大名の[[陣屋]]が配置された。
 
西国衆を中心に総勢15万8000の兵が9軍に編成され、[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]([[5月12日]])に[[小西行長]]・[[宗義智]]率いる第一陣が[[朝鮮半島]]へ出兵したのを皮切りに、名護屋を出発した諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡っていった。秀吉は[[京都]][[聚楽第]]を[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]([[5月7日]])に出発し[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[6月5日]])に当地に到着している。以後[[大政所]]の危篤時を除いてこの地が本営となる。文禄の役では最終的に20万以上の兵が名護屋から朝鮮に渡った。当地には西国衆の渡海後も東国衆と秀吉旗本衆約10万の兵が駐屯している。多くの人員を養うには水源が足りなかったようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったという。
 
朝鮮半島で戦線が膠着すると、翌文禄2年([[1593年]])4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び[[慶長]]2年([[1597年]])2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させた。
 
この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。慶長3年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]([[1598年]])8[[9月18日]])、秀吉が没したために全軍撤収し名護屋城もその役割を終えた。出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2か月であった。
出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2か月であった。
 
出兵の終わった後、この地は寺沢広高の治めるところとなった。[[関ヶ原の戦い]]の後、慶長7年([[1602年]])広高は[[唐津城]]の築城を開始した。この際に名護屋城を解体しその遺材を使用した。また、この際に二度と城が利用できないように要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業を行われたようだが、本格的に城が破壊されたのは、[[島原の乱]]以降のことである。島原の乱で徳川幕府が謀反の際名護屋城が利用されること恐れたためと、名護屋城を破壊することで幕府が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたと見られている。
<gallery>
ファイル:NagoyaC Otemon.jpg|名護屋城大手門跡
== 陣屋跡 ==
名護屋城周辺には118ヵ所の陣跡が確認されており、うち65ヵ所に遺構が残っているが特別史跡に指定された陣跡は以下の23箇所。
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[生駒親正]]陣跡
* [[上杉景勝]]陣跡
* [[九鬼嘉隆]]陣跡
* [[黒田長政]]陣跡
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[小西行長]]陣跡
* [[島津義弘]]陣跡
* [[福島正則]]陣跡
* [[古田重然|古田織部]]陣跡
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[堀秀治]]陣跡
* [[前田利家]]陣跡
* [[毛利秀頼]]陣跡
</div><br style="clear: left;" />
 
== 参考文献 ==
* 西ヶ谷恭弘/編 『定本 日本城郭事典』 秋田書店 平成12年([[2000年]]) 420ページ
 
== 脚注 ==
{{reflistReflist}}
 
== 関連項目 ==
* [[日本の城一覧]]
* [[九州・沖縄の史跡一覧]]
* [[日本100名城]]
* [[佐賀県の観光地]]
* [[佐賀県立名護屋城博物館]]
* [[勝本城]]
* [[清水山城 (対馬国)|清水山城]]
 
== 外部リンク ==
* [http://www.pref.saga.lg.jp/web/nagoya.html 佐賀県立名護屋城博物館]
* [http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/bunkazai/kouko/712/ko_712_120101.htm 名護屋城の規模は大坂城級、本丸跡から御殿群の遺構発見 (読売新聞、07.12.01)]
* [http://www.bunka.go.jp/bsys/index.asp 国指定文化財等データベース]
* [http://bunka.nii.ac.jp/Index.do 文化遺産オンライン]肥前名護屋城図屏風あり
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