「小栗忠順」の版間の差分

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その後、[[鳥羽・伏見の戦い]]を経て、江戸城にて主戦派と恭順派の議論が繰り返されていた。小栗は主戦を説いたが、[[横須賀製鉄所|横須賀造船所]]建設計画時に倒幕を容認する発言もしている。
 
慶応3年(1867年)11月9日、将軍・徳川慶喜は朝廷に[[大政奉還|大政を奉還]]。12月の[[江戸薩摩藩邸の焼討事件]]を経て[[慶応]]4年([[1868年]])1月初頭には、鳥羽・伏見の戦いにて[[戊辰戦争]]が勃発。徳川慶喜が上方から江戸に帰還し、1月12日からの[[江戸城]]にて評定において、主戦派と恭順派の議論が繰り返され、小栗は、[[榎本武揚]]、[[大鳥圭介]]、[[水野忠徳]]等と共に、徹底抗戦を主張し、箱根での陸海共同の挟撃策を提案したとされる。これは敵軍(新政府軍)が[[箱根]]関内に入った所を迎え撃ち、同時に当時日本最強といわれた[[榎本武揚]]率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅するというものであった。後にこの策を聞いた[[大村益次郎]]が「'''その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう'''」と懼れるほどの奇策であり<ref>木村知治 土方伯 398-399頁、同様の記述に森 192頁</ref>(同様の戦術は、勝海舟が「こうすれば戦術的勝利を得られるが、戦争の長期化は免れない。」と慶喜を説得するために説いたとされる)、議論といっても恭順派は勝海舟など少数であり、ほとんどの人間は主戦派であったが、しかし慶喜は、この策を採用せず恭順論を受け入れる事となる。
なお小栗は主戦を説いたが、[[横須賀製鉄所|横須賀造船所]]建設計画時に倒幕を容認する発言もしている。
 
 
 
慶応4年([[1868年]])1月15日に[[老中]]・[[松平康英]]より全て役職から免ぜられ勤仕並[[寄合]]となる沙汰を申し渡されると、小栗は同月28日「上野国[[群馬郡]]権田村(現在の[[群馬県]][[高崎市]]倉渕町権田)への土着願書」を提出した。旧知の[[三野村利左衛門]]から[[千両箱]]を贈られ[[米国]]亡命を勧められたものの、これを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えた<ref>三野村 1969年 52頁、 倉渕村 239-240頁</ref>。また、2月末に[[渋沢成一郎]]から[[彰義隊]]隊長に推されたが、「徳川慶喜に、薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した<ref>倉渕村240頁、加来、104頁</ref>。3月初頭、小栗は一家そろって権田村の東善寺に移り住む。当時の村人の記録によると、水路を整備したり、塾を開くなど、静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子はない。しかし2ヶ月後、官軍の命をうけた[[高崎藩]]・[[安中藩]]・[[吉井藩]]兵により、小栗忠順は捕縛された。
 
同年閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、小栗は取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に3人の家臣と共に引き出され、斬首された<ref>なおこの件に関しては、上野国狩宿関所役人、片山保左衛門は慶応4年(1868年)閏4月の日記に「小栗上野介如何様之儀有候哉」と記している。片山 121頁</ref><ref>小栗の斬首の前に鎮撫総督本営から助命の沙汰があったとされる説がある。しかし、現地に助命の沙汰書が届いたのは、斬首の翌日であった。山田 1974年 184頁、 畠山 247-248頁</ref>。