「明智光秀」の版間の差分

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* 主君・織田信長を討った行為については、近代に入るまでは“逆賊”としての評価が主だった。特に儒教的支配を尊んだ[[徳川幕府]]の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に神君[[徳川家康]]が[[伊賀越え]]という危難を味わったことなどから、このことが強調された。
* 本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長は[[殷]]の[[帝辛|紂王]]であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。しかし京童や町衆は光秀が金銀を贈与していたから表面上は信長殺しを賞賛したが、心の中では「日向守(光秀)は己が身を[[武王 (周)|武王]]に比している。笑止千万、片腹痛い」と軽蔑していたという。このことから光秀の行為が町衆などの市民にさえ支持されていなかったことがうかがえる([[豊内記]])。
*『明智光秀公家譜覚書』によると、変後の時期に光秀は参内し、従三位・中将と[[征夷大将軍]]の宣下を受けたとされる。
* 光秀は信長を討った後、朝廷や京周辺の町衆・寺社などの勢力に金銀を贈与した。また、洛中及び[[丹波国]]に、[[地子銭]](宅地税)の永代免除という政策を敷いた。これに対し、[[正親町天皇]]は、変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣している。ただし、勅使として派遣されたのは[[吉田兼見]]である。兼和は、神祇官として朝廷の官位を受けてはいたが、正式な朝臣ではなかった。こうしたことから、光秀が得た権威は一時的なもので、朝廷は状況を冷静に見ていたと考えられる。