「小栗忠順」の版間の差分

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[[安政]]7年([[1860年]])、[[万延元年遣米使節|遣米使節]]目付(監察)として、正使の[[新見正興]]が乗船する[[アメリカ海軍]][[軍艦]][[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]]で渡米。随行艦である[[咸臨丸]]には、[[軍艦奉行]]・[[木村芥舟]]が司令官、[[勝海舟]]が艦長として乗っており、木村の従者には[[福澤諭吉]]がいた。2ヶ月の船旅で[[サンフランシスコ]]に到着し、歓迎される。代表は新見正興であったが、目付の小栗が代表と勘違いされ、行く先々で取材などを受け、新聞などにも小栗の名が上がっている。勘違いの理由として、多くの同乗者は外国人と接したことがなく困惑していたが、詰警備役として異人との交渉経験がある小栗は落ち着いていたために、代表に見えたと言われている。
 
[[フィラデルフィア]]では通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ。これは[[日米修好通商条約]]で定められた通貨の交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていたためである。小栗は[[小判]]と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明したものの、交換比率改定までにはいたらなかった。しかし、この交渉に関して、多くのアメリカ新聞は絶賛の記事を掲載する。また、小栗は[[ワシントン海軍工廠]]を見学した際、日本との[[製鉄]]及び[[金属加工]]技術などの差に驚愕し、記念に[[ネジ]]を持ち帰った。
 
その後[[ナイアガラ (砲艦)|ナイアガラ号]]に乗り換え、[[大西洋]]を越えて世界一周し、[[品川 (東京都)|品川]]に帰着。帰国後は、遣米使節の功により200石加増、2,700石となり、[[外国奉行]]や[[勘定奉行]]などの要職を歴任。財政立て直しを指揮する。当時の最大の出費は幕府が瓦解するまでに44隻の艦船を諸外国から購入していたことであり、その総額は実に333万6千[[メキシコドル|ドル]]<ref>1メキシコドル=0.75両。一両の価値は[http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J029.htm]参照</ref>に上った。<!--そのうえ満足に操舵できる人材も少なく、現に他国の交渉材料にもなっていなかった。-->そこで駐日フランス公使[[レオン・ロッシュ]]の通訳[[メルメ・カション]]と親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、造船所についての具体的な提案を練り上げた。
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[[慶応]]元年([[1865年]])11月15日、「[[横須賀造船所|横須賀製鉄所]]」(後の[[横須賀海軍工廠]])の建設開始<ref>1871年に全ての施設が完成。なお江戸開城直前には、第一船渠は完成し、第一、第二船台の工事進捗率はそれぞれ8割、6割であり、一部完成した施設では40馬力の小汽船が製造されていた。武田 119頁</ref>。規模と建設費用を考えると当時のアジア最大の[[海軍工廠]]建設計画であり、その費用は、万延[[二分金]]などの貨幣の増鋳による[[シニョリッジ|貨幣発行益]] により賄った<ref>瀧澤ほか 258頁</ref><ref>田辺、幕末外交談2 237-238頁</ref>。そして当時28歳の[[レオンス・ヴェルニー|フランソワ・レオンス・ヴェルニー]]を首長に任命。幕府公認の事業では初の外国人責任者だった。これにより職務分掌・[[就業規則|雇用規則]]・[[残業手当]]・[[OJT|社内教育]]・[[簿記|洋式簿記]]、[[月給]]制など[[経営学|近代経営]]や[[人事労務管理]]の基礎が日本に導入された<ref>平間 軍事史学176号 48-51頁</ref>。また製鉄所の建設をきっかけに[[横浜仏語伝習所|横浜仏蘭西語伝習所]]という日本初のフランス語学校を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業を行った<ref>坂本 347-372頁</ref>。卒業生には明治政府に貢献した人物が多い<ref>山本 95頁、及び横須賀製鉄所の人びと 参照</ref>。
 
小栗は海軍だけではなく、陸軍の力を増すために、外国からの輸入に頼っていた[[小銃]]・[[大砲]]・弾薬等の[[兵器]]・装備品の国産化を推進したが、特に[[四斤山砲]]・[[ミニエー銃|スプリングフィールド銃]]が主たる対象であった。[[文久]]2年([[1862年]])12月、銃砲製造の責任者に任ぜられると、それまで[[江川英武]]に運営を任されていた[[関口製造所]]を幕府直轄の事業とし、組織改革を行い、組織の合理化、当時多発していた製造不良の低減に着手した<ref>大松 69-79頁</ref>。また[[ベルギー]]より[[弾薬]]用[[火薬]]製造機械を購入し、[[滝野川反射炉]]の一角に設置することとし、日本初の西洋式火薬工場を建設した<ref>武田 127-129頁</ref>。そして更なる軍事力強化のため、幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを計画した。慶応2年12月8日(1867年1月12日)に[[フランス軍事顧問団 (1867-1868)|フランス軍事顧問団]]が到着、翌日から訓練が開始された。
また、軍事顧問団と時を同じくして、フランスに、大砲90門、[[シャスポー銃]]10000丁を含む[[後装式|後装]]小銃、25000丁、陸軍将兵用の軍服27000人分等の大量の兵器・装備品を発注し、購入金額は総計72万[[メキシコドル|ドル]]にも上った。これらの軍事物資は慶応3年(1867年)10月頃から、続々と[[横浜市|横浜]]に到着した<ref>石井 明治維新の国際的環境 710-713頁</ref>。
 
経済面においては、慶応3年([[1867年]])、[[株式会社]]'''兵庫商社'''の設立案を提出。大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立した。これは、資本の少なさから日本商人が海外貿易で不利益をこうむっており、これを解決するのは大資本の商社が必要との認識によるものであった。資金100万両というのは、当時設立されていた株式会社の中でも、大きく抜きん出た巨大企業であった<ref>坂本 413-425頁など</ref>。
 
8月9日、日本初の本格的[[ホテル]]、[[築地ホテル館]]の建設が始まった。築地ホテル館は小栗の発案・主導のもとに[[清水喜助]]らが建設、運営したが<ref>村上 106-121頁</ref>、完成は翌慶応4年(1868年)8月10日で、このときすでに小栗は[[斬首]]されていた。
 
 
慶応3年(1867年)11月9日、将軍・徳川慶喜は朝廷に[[大政奉還|大政を奉還]]。12月の[[江戸薩摩藩邸の焼討事件]]を経て[[慶応]]4年([[1868年]])1月初頭には、[[鳥羽・伏見の戦い]]にて[[戊辰戦争]]が勃発。徳川慶喜が上方から江戸に帰還し、1月12日からの[[江戸城]]にて評定において、主戦派と恭順派の議論が繰り返され、小栗は、[[榎本武揚]]、[[大鳥圭介]]、[[水野忠徳]]等と共に、徹底抗戦を主張し、箱根での陸海共同の挟撃策を提案したとされる。'''これは敵軍(新政府軍)が[[箱根]]関内に入った所を迎え撃ち、同時に当時日本最強といわれた[[榎本武揚]]率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅するというものであった。'''後にこの策を聞いた[[大村益次郎]]が「'''その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう'''」と懼れるほどの奇策であり<ref>木村知治 土方伯 398-399頁、同様の記述に森 192頁</ref>(同様の戦術は、勝海舟が「こうすれば戦術的勝利を得られるが、戦争の長期化は免れない。」と慶喜を説得するために説いたとされる)、実際この時点において、旧幕府軍は多数の予備兵力が残されており、新政府軍も相手を圧倒するほどの兵力を動員することができなかっった。<ref>児島 207-211頁</ref>そして議論といっても恭順派は勝海舟など少数であり、ほとんどの人間は主戦派であったが、しかし慶喜は、この策を採用せず恭順論を受け入れる事となる。
なお小栗は主戦を説いたが、[[横須賀製鉄所|横須賀造船所]]建設計画時に倒幕を容認する発言もしている。