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差分

===清滞在期間 1794年 - 1795年===
[[画像:Houckgeest.JPG|left|thumb|180px|<small>唯一知られているティチングの当時の肖像は[[ファン・ブラーム]]の本に書かれた乾隆帝宮殿内のティチング使節団。ティチングは座して帽子をかぶっている。</small>]]
 
ティチングは乾隆帝の治世60年記念式典のため[[北京市|北京]]の宮殿に赴くオランダ大使に任命された。中国でのティチングの実質的な役割は外交大使であり同時にオランダ東インド会社代表でもあった。
1794年とは、[[オーストリア]]領オランダ([[ネーデルラント連邦共和国]])が[[フランス革命]]軍によって占領された年。そして1795年1月、オランダは滅亡してフランスの衛星国[[バタヴィア共和国]]が建国を宣言した。
 
オランダ人にとって危機的な時期、ティチングは乾隆帝の治世60年記念式典のため[[北京市|北京]]の宮殿に赴くオランダ大使に任命された。中国でのティチングの実質的な役割は外交大使であり同時にオランダ東インド会社代表でもあった。
 
ティチングはヨーロッパ人が今まで許されなかった中国奥地への旅を許可されたが、[[広東]]から北京に至る真冬の旅は彼らを大きく疲弊させるものであった。ティチング一行は[[新年]]の式典に間に合うように北京に到着。[[ジョージ・マカートニー]][[伯爵]]以後のイギリス大使の失敗を好まなかったティチングは、事前に皇帝への[[三跪九叩頭の礼]]を含めた複雑な宮殿作法の要求を言い含める努力に勤めた。稀に見る敬意を払われ[[紫禁城]]に入って儀礼を行い、その後[[円明園]]に入った。歓待は乾隆帝の宮殿で行われ、これは式典より前に[[イギリス]]使節団が拒絶されたこととは対照的であった。
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