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'''ネル・ホール・ホップマン'''('''Nell Hall Hopman''', [[1909年]][[3月9日]] - [[1968年]][[1月10日]])は、[[オーストラリア]]・[[シドニー]]市クーギー出身の女子[[テニス]]選手。本名は ''Eleanor Mary Hall Hopman'' (エリナー・メアリー・ホール・ホップマン)といい、「ネル」は彼女の愛称である。[[ハリー・ホップマン]]の妻として、夫婦ペアの混合ダブルスで活躍したのみならず、自らも優れたテニス教育者であり、「ビクトリア・ローンテニス協会」(Lawn Tennis Association of Victoria)の顧問としてオーストラリアの若手女子選手の育成に尽力した。
 
== 概要 ==
エリナー・メアリー・ホールは故郷のランドウィックにある[[クラレモント大学]]で、テニスと音楽に優れた才能を発揮した。学生時代から勤勉さを育み、毎日6時間ピアノの練習に励んだ彼女は、[[1928年]]に[[王立音楽大学|ロンドン王立音楽大学]]の教員免許状を取得したが、職業としてテニス選手の道を選んだ。[[1930年]]の[[1930年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]]混合ダブルスで、ホールは[[ハリー・ホップマン]]と出会い、2人は[[ジャック・クロフォード]]&[[マージョリー・コックス・クロフォード|マージョリー・コックス]]組を破って初優勝した。4年後の[[1934年]]3月19日、ネル・ホールとハリー・ホップマンは結婚式を挙げ、彼女は2つの姓を併用して「ネル・ホール・ホップマン」と名乗るようになった。音楽はその後も、彼女の人生に欠かせないくつろぎと喜びをもたらすものであった。
 
結婚の翌年、[[1935年]]にネルとハリーは[[1935年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]の混合ダブルスで決勝に進出した。2人はこの決勝戦で、地元イギリスの[[フレッド・ペリー]]&[[ドロシー・ラウンド]]組に 5-7, 6-4, 2-6 で敗れた。それから、2人は全豪選手権の混合ダブルスで[[1936年オーストラリア選手権 (テニス)|1936年]]・[[1938年オーストラリア選手権 (テニス)|1938年]]・[[1939年オーストラリア選手権 (テニス)|1939年]]に優勝し、夫婦ペアとして3つの優勝を加えた。4度目の混合ダブルス優勝を決めた[[1939年オーストラリア選手権 (テニス)|1939年]]の全豪選手権で、ネルは初めて女子シングルス決勝に進出したが、ここでは[[エミリー・フッド・ウェスタコット|エミリー・ウェスタコット]]([[1910年]] - [[1980年]])に 1-6, 2-6 で完敗してしまう。
 
自らの選手経歴を築く傍ら、ネル・ホップマンは[[1938年]]にオーストラリア女子選手による海外遠征チームのキャプテンを務め、9ヶ月間にわたってヨーロッパ、イギリス、アメリカを遠征した。「オーストラリア・ローンテニス協会」が女子選手のための海外遠征を支援し始めたのは、これが2度目だった。当時は女子選手のための国際的なテニス団体戦がなく、オーストラリアの女子選手たちは海外に出るチャンスが限られていた。(当時行われていた女子テニス団体戦「[[ワイトマンカップ]]」は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[イギリス]]の女子選手によるチーム対抗戦だった。)その後間もなく[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]が勃発し、テニス競技大会も戦争のため開催中止を余儀なくされる。ホップマンは戦時中、赤十字社のボランティアやイギリス軍の秘書の仕事をした。
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終戦後の[[1947年]]、ネル・ホール・ホップマンは[[1947年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]]で8年ぶり2度目の女子シングルス決勝進出を決めたが、今度は[[ナンシー・ウィン・ボルトン]]に 3-6, 2-6 で敗れ、この部門では2度目の準優勝に終わった。女子でもオーストラリア勢と海外選手の対戦機会を増やしたいと願い、ホップマンは「オーストラリア・ローンテニス協会」に説得を続ける。[[1949年オーストラリア選手権 (テニス)|1949年]]と[[1950年オーストラリア選手権 (テニス)|1950年]]の全豪選手権では、アメリカ女子のトップ選手であった[[ドリス・ハート]]と[[ルイーズ・ブラフ]]の全豪出場を実現させた。[[1952年]]から[[1953年]]にかけては、[[モーリーン・コノリー]]をオーストラリアに招待した。コノリーは[[1953年オーストラリア選手権 (テニス)|1953年]]の全豪選手権で初優勝を飾り、女子選手初の「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」への第一歩を踏み出した。ホップマン夫妻とコノリーは親しい間柄になり、ネルとコノリーは[[1954年]]の[[1954年全仏テニス選手権|全仏選手権]]女子ダブルスで優勝した。
 
[[1960年代]]に入ると、若手の女子選手たちはより自由な海外遠征を求めるようになり、個人戦よりもチーム団体戦を重視してきたホップマンと意見の対立が多くなった。この点は、外部参照オーストランクの説明によればア人名事典では、「ホップマン夫妻に子供がなく、ネルは若手選手たちが教育者やコーチ、チーム監督に期待する事柄の変化を理解できなかった」と述べられている<ref>[http://www.adb.online.anu.edu.au/biogs/A140559b.htm オーストラリア人名事典(英語)]</ref>。ようやく[[1963年]]に、女子テニス国別対抗戦「[[フェドカップ|フェデレーションカップ]]」が創設され、オーストラリアは第3回大会の[[1965年]]に初優勝を遂げた。ホップマンは[[1965年]]に女性として初めて「ビクトリア・ローンテニス協会」の終身会員に選ばれたが、その直後から激しい頭痛に悩まされるようになり、[[1966年]]に[[脳腫瘍]]の手術を受けた。[[1968年]][[1月10日]]、夫のハリーがまだ[[デビスカップ]]監督を務めていた間に、ネル・ホール・ホップマンは頭蓋内腫瘍のため58歳で死去した。
 
== 主な成績 ==
* [[全豪オープン|全豪選手権]]
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** 女子ダブルス:準優勝3度(1935年・1937年・1955年)
** 混合ダブルス:4勝(1930年・1936年・1937年・1939年)
* [[全仏オープン|全仏選手権]]  女子ダブルス優勝:1954年
* [[ウィンブルドン選手権]]  混合ダブルス準優勝:1935年
 
== 外部リンク ==
== 脚注 ==
* [http://www.adb.online.anu.edu.au/biogs/A140559b.htm オーストラリア人名事典(英語)]
<references/>
 
{{全仏テニス選手権女子ダブルス優勝者}}