「本多忠籌」の版間の差分

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==生涯==
元文4年(1739年)12月8日、陸奥泉藩初代藩主本多忠如の長男として[[江戸]]下谷の泉藩邸で生まれる。[[宝暦]]4年([[1754年]])8月29日、父の[[隠居]]で[[家督]]を継ぎ、第2代藩主となる。同年12月に[[従五位下]][[弾正少弼]]に叙位任官される。[[天明]]7年([[1787年]])、[[若年寄]]に任じられる。[[天明]]8年([[1788年]])2月2日に[[側用人]]に任じられる。5月1日には[[従四位下]][[弾正大弼]]に昇叙する。[[寛政]]2年([[1790年]])、[[老中|老中格]]に任ぜられ、侍従に任官され5000石が加増された。
 
好学の大名であり、[[佐藤信淵]]の父である[[佐藤信季|佐藤玄明窩]]に[[経世論|経世済民の学]]を学び、藩政統治に生かそうとした。また、[[中沢道二]]に[[石門心学]]を学び、[[善教舎]]を開設して人心の教化育成につとめた。また、心学を通じて[[松平定信]]と親交が生まれることになる。飢饉用の備蓄庫である郷蔵を設置し、堕胎を禁止した。
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[[寛政の改革]]における幕政に参与し、閣内においては早くから国防の必要性を痛感し[[最上徳内]]の「[[蝦夷草紙]]」に影響を受け、[[蝦夷地]]を幕府直轄地とし、開拓を進めて[[ロシア]]の[[南下政策]]に対抗すべしと主張した。この主張は蝦夷地は旧来どおり[[松前藩]]に統治させるべしとする定信に容れられず、彼の在任中には実現しなかったが、退陣後の文化8年([[1811年]])、蝦夷地天領化が実現している。
 
[[寛政]]10年([[1798年]])に老中職を辞任し、[[寛政]]11年([[1799年]])10月23日に家督を長男で庶子の[[本多忠誠]]に譲って隠居する。嫡子に次男[[本多忠雄]]がいたが、忠雄が21歳のときに廃嫡したため、庶子の忠誠に家督を継がせたのである。文化9年(1812年)12月15日に病死。享年74。
 
== 著作 ==