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{{Otheruses|[[ドイツ]]・[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]の初代大統領|その息子で[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の政治家|フリードリヒ・エーベルト_(息子)}}
{{大統領
 
{{大統領 | 人名 = フリードリヒ・エーベルト
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'''フリードリヒ・エーベルト'''('''{{lang-de|Friedrich Ebert'''}}, [[1871年]][[2月4日]] – [[1925年]][[2月28日]])は[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[ドイツ社会民主党]](SPD)党首、[[ドイツ国]]([[ヴァイマル共和政]]での)初代[[ドイツ国]](ドイツ共和国)初代大統領|大統領]]
 
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'''フリードリヒ・エーベルト'''('''Friedrich Ebert''', [[1871年]][[2月4日]] – [[1925年]][[2月28日]])は[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[ドイツ社会民主党]](SPD)党首。[[ヴァイマル共和政]]での[[ドイツ国]](ドイツ共和国)初代大統領。
 
== 経歴 ==
=== 労働者 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-00605A, Friedrich Ebert als Lehrling.jpg|250px|thumb|徒弟時代のエーベルト(X印の人物。1885年)]]
仕立職人の家に9人兄弟の7番目の息子として[[ハイデルベルク]]に生まれ、国民学校を卒業後、馬具徒弟工となる。しかし親方と喧嘩したため職人(マイスター)免許の試験に合格せず、一時失業も経験した。修業中に[[労働組合]]に投じ、1889年頃に[[ドイツ社会民主党]](SPD)に入党して政治に傾倒する。1890年、[[ハノーファー]]で馬具職人組合の書記長となる。しかし[[社会主義者鎮圧法]]により当局に監視されていた彼は移住を強いられ、[[ブレーメン]]に引っ越す。
 
ブレーメンでは職人及び臨時労働者として過ごした。1893年にSPD系の地元紙「ブレーメン市民新聞」編集員となる。翌年SPDの地区代表となり、政治キャリアの第一歩を踏み出した。この頃ルイーゼ・ルンプと結婚。彼女は生涯エーベルトを支えてゆくことになる。エーベルトは飲食店経営を引き継ぎ、その店はブレーメンの労働組合員の溜まり場となった。1900年に労働組合の書記として収入を得るようになり、1902年には[[ヘルマン・ミュラー]]と共にブレーメンの労働者の労働条件や生活の実情を記録した報告を作成した。
 
SPDは1904年にブレーメンで党大会を開いたが、その議長を務めたエーベルトは全国的な知名度を得た。翌[[1905年]]にSPD事務局長となり、14年住んだブレーメンを離れて[[ベルリン]]に引っ越した。そこでSPDの党学校に学んだが、そこで[[マルクス主義]]及び[[経済学]]の講師を務めていた[[ローザ・ルクセンブルク]]に習っている。1912年にエーベルトは[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]]議員に初当選し、SPDは議会第一党に躍進した。翌[[1913年]]に[[アウグスト・ベーベル]]が死ぬと、9月20日の党大会で彼は[[フーゴー・ハーゼ]]と並んで党首(幹部会議長)に就任。エーベルトはSPDの穏健[[修正主義]]のリーダーとなる。またエルバーフェルト(現在の[[ヴッパータール]])でも政治家を務めた。
 
=== 大戦と革命 ===
[[1914年]]8月、[[第一次世界大戦]]が勃発。8月4日の戦時予算案の議決に際し、エーベルトは「祖国が危機に瀕しているときに放っておきはしない」と戦争を必要な愛国的防衛の手段だとして受け入れ、戦時適応法を支持して、党議拘束でほぼ全員一致で投票させた。党のスタンスは、エーベルトや戦争を支持していた[[フィリップ・シャイデマン]]のような修正主義派のリーダーシップの下で進められていた。しかしこの大戦ではエーベルトの3人の息子のうち2人が戦死、末子の[[フリードリヒ・エーベルト_(息子)|フリードリヒ]]も負傷している。
 
戦争の勝利の見込みが薄くなると、戦争に反対するハーゼや[[カール・カウツキー]]をはじめとする左派は1916年に離党あるいは除名された。彼らは翌年4月に[[アメリカ合衆国]]が[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]に参戦すると、[[ドイツ独立社会民主党]](USPD)を結成した。またローザ・ルクセンブルクや[[カール・リープクネヒト]]ら急進左派は[[スパルタクス団]]を結成して分離した。エーベルトはハーゼの議会議員団長の職を引き継ぎ、シャイデマンが共同党首になった。1918年に敗色が濃厚になると、10月にエーベルトやSPDの他のメンバーを含めた、[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン公マクシミリアン]]による新内閣が組閣された。
 
[[キール (ドイツ)|キール]]で水兵の反乱が起きて[[ドイツ革命]]が勃発し、その波がドイツ各地に広まると、宰相マクシミリアンは11月9日に辞職して独断で皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の退位を発表し、同様にエーベルトを自分の後任のドイツ帝国臨時宰相に指名した。同日ベルリンの[[国会議事堂 (ドイツ)|帝国議会]]でフィリップ・シャイデマンが、帝政の終了と共和国発足を宣言した。翌日発足したSPDとUSPDによる臨時政府(人民代表委員会)は、完全にエーベルトの主導権下に入り、エーベルトはハーゼと共に委員長に就任した。<ref>エーベルトとハーゼは同格扱いだったが、建前上は[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン公マクシミリアン]]から法的根拠がないまま首相に指名されていたエーベルトが首相格とされ、ハーゼは副首相格だった。ただしドイツ語版ウィキペディアなど、ハーゼをエーベルトと並ぶ暫定首相扱いする場合もある。</ref>さらにエーベルトは軍のトップとなった[[ヴィルヘルム・グレーナー]]とも交渉して協力を取り付けた。しかし本来エーベルトは君主制の支持者であり、この地位を不承不承に引き受けていた。
[[Image:Ebert Fehrenbach.jpg|thumb|[[コンスタンティン・フェーレンバッハ|フェーレンバッハ]]首相(中央右)と'''エーベルト'''(中央左)(1920年)]]
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{{Succession box
| title = {{flagicon|DEU1919}} [[ドイツ国]][[ドイツの大統領 (ヴァイマル共和政)|大統領]]
| years = 初代:1919-1925
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{{Succession box
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| titlenote = (帝政ドイツ臨時政府人民代表委員長)
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{{Succession box
| title = {{flagicon|DEU1871}} [[ドイツ首相|ドイツ帝国宰相]]
| years = 1918
| before = [[マクシミリアン・フォン・バーデン]]