「大宮町 (静岡県)」の版間の差分

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郡=[[富士郡]]|
コード=|
面積=23.52|
境界未定=|
人口=|
鳥など=|
郵便番号=|
所在地=富士郡大宮町[[File:静岡県富士宮市市章.svg|100px|center]]<br/>昭和9年に制定された町章<ref>昭和17年には市紋章となる [http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/aramashi/gaiyou6.htm 富士宮市公式]</ref>|
所在地=富士郡大宮町|
電話番号=|
外部リンク=|
特記事項=
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([[日本]] > [[静岡県]] > [[富士郡]] > '''大宮町''')
 
'''大宮町'''(おおみやまち)は[[静岡県]][[富士郡]]に存在していた[[町]]。
 
== 概要来歴 ==
{{和暦|1889}} [[4月1日]] - 大宮町が発足。
かつては[[駿河国]][[富士郡]]に属しており、主に[[富士山本宮浅間大社]]の[[門前町]]としての顔を持つ。地理上、駿河国と[[甲斐国]]を結ぶ[[中道往還]]から駿河から[[伊豆国]]へ至る街道を結ぶ場所であったため、宿場町としても栄えた。当時(市制施行以前)の大宮町の人口規模は約2万6000人とされ<ref>[http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/e-museum/60nen/60index.htm 富士宮市公式]</ref>、富士郡の中心地であった。その後[[1942年]][[6月1日]]に富丘村と合併し、富士郡初の市制施行に至る。
 
{{和暦|1929}} - 大宮町大火。約1200戸焼失。
== 文化 ==
古くは甲駿国境に位置する[[大宮城 (駿河国)|大宮城]]を政治の中心として大宮は発達した。後に富士登山が広まるようになると、富士登山の宿坊地としての役割を持つようになる。富士登山の道者達は[[湧玉池]]で禊を行い、水垢離を行ってから登山を行う習慣があり、大宮はその禊の地としての宿坊地として発達した。また、[[吉原宿]](田子の浦)からの中継地点としての役割も担っていたと言われる。<ref>[http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/hp/report/ 富士市立博物館]</ref>
 
{{和暦|1942}} [[6月1日]] - 富丘村と合併し市制施行。県内で7番目の市制施行で、富士郡では初である。当時(市制施行以前)の大宮町の人口規模は約2万6000人とされ<ref>[http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/e-museum/60nen/60index.htm 富士宮市公式]</ref>、富士郡の中心地であった。
平安時代から中世には[[富士氏]]などの[[国衆]]が台頭しており、また市制施行での名称(富士宮市)としても「富士」を含んでいるなど「富士」という名称の名残が強い。
 
{{Quotation|大宮町富丘村ヲ廃シ、其ノ区域ヲ以テ新市ヲ置ク場合、其ノ名称ハ、当地ニハ駿河国一ノ宮官幣大社浅間神社鎮座セラレ、其ノ奥ノ宮ハ富士山頂ニ鎮座マシマシテ、一名富士ノ宮トモ称セラレ、往昔ヨリ人口ニ膾炙(かいしゃ)セラレ、依テ新市ノ名称トシテ真ニ相応シク、之ニ付テハ両町村共何等異議ナキヲ以テ、新市ノ名称ハ富士宮市(ふじのみやし)ト称ス。|内務省告示第360号}}
戦国期の駿河守護[[今川氏]]の支配下の時代には[[六斎市]]が開かれた。後に[[今川氏真]]による富士大宮楽市令により[[楽市]]がこの地に広まり、商業が発達した。
 
== 文化 ==
大正時代は町内には芸者が歩き100人を超える程であったと言われる。<ref>遠藤秀男 『懐かしの富士宮』 〈羽衣出版〉、2009年、219頁</ref>芸者は主に「高しま屋」といった老舗を中心として活動していたが、時代の流れでその文化も途絶え、現在は高しま屋の[[長屋門]]しか残っていない。[[1932年]](昭和7年)の大火で大部分を消失したが、<ref>[http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/k-shinrin/kihonkeikaku/2syo.pdf 第Ⅱ章 富士宮市の環境の課題と将来像]</ref>それも数年で復興する程であった。
古くかつて[[駿]][[富士郡]]に属しており、主位置する[[富士山本城 (浅間大社]]の[[門前町]]としての顔を持つ。地理上、駿河国)|大宮城と[[甲斐国]]を政治の結ぶ[[道往還]]から駿河から[[伊豆国]]へ至る街道を結ぶ場所であったため、宿場町として大宮は発達しも栄えた。後に富士登山が広まるようになると、富士登山の宿坊地としての役割を持つようになる。富士登山の道者達は[[湧玉池]]で禊を行い、水垢離を行ってから登山を行う習慣があり、大宮はその禊の地としての宿坊地として発達した。また、[[吉原宿]](田子の浦)からの中継地点としての役割も担っていたと言われる。<ref>[http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/hp/report/ 富士市立博物館]</ref>戦国期の駿河守護[[今川氏]]の支配下の時代には[[六斎市]]が開かれた。後に[[今川氏真]]による富士大宮楽市令により[[楽市]]がこの地に広まり、商業が発達した。
 
大正時代は町内には芸者が歩き100人を超える程であったと言われる。<ref>遠藤秀男 『懐かしの富士宮』 〈羽衣出版〉、2009年、219頁</ref>芸者は主に「高しま屋」といった老舗を中心として活動していたが、時代の流れでその文化も途絶え、現在は高しま屋の[[長屋門]]しか残っていない。[[1932年]](昭和7年)の大火で大部分を消失したが、<ref>[http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/k-shinrin/kihonkeikaku/2syo.pdf 第Ⅱ章 富士宮市の環境の課題と将来像]</ref>それも数年で復興する程であった
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
 
== 関連項目 ==
*[[消滅した日本の市町村の一覧]]
 
== 外部リンク ==
* [http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/e-museum/60nen/60index.htm 富士宮市]
 
{{Japan-area-stub}}
{{DEFAULTSORT:おおみやまち}}
[[Category:静岡県の市町村 (廃止)]]
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