「メノルカ島侵攻」の版間の差分

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クリヨン公爵はこの成功に続いてマオー公爵の称号を与えられ、新たに[[ジブラルタル包囲戦|ジブラルタル攻略]]の任務を与えられた。クリヨンはそこで砦を襲う大胆な作戦を始めた。ジェイムズ・マリー中将は、ウィリアム・ドレイパーの告発により、1782年11月に軍法会議に掛けられた。結局マリーは2つの罪状でのみ有罪とされた(そのうち重大なものはその副官を見下すような命令を発したことであり、それが1月にドレイパーを解任する引き金になっていた)。1783年1月、マリーは譴責処分の判決を受け、その後直ぐに国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]直の仲介で、法廷でドレイパーが発した言葉に対する謝罪が行われた。そうでもしなければ決闘になっていたかもしれない<ref>Anderson, William [http://books.google.com/books?id=37QEAAAAIAAJ&pg=PA130&lpg=PA130 ''The Scottish Nation'' (vol. 2 page 130)] Edinburgh, Fullarton (1862), via Google Books — accessed 2007-12-17</ref>。2月にマリーは大将に昇進したが、包囲戦中に60歳の誕生日を過ぎていたので、実務に戻ることはなかった。ただし、マリーは1789年に第21フュージリア連隊の連隊長になった<ref>[http://www.oxforddnb.com/view/article/19619?docPos=6 Dictionary of National Biography entry] – subscription, accessed 2007-12-16</ref>。
 
イギリスは[[フランス革命戦争]]中の1798年にメノルカ島を再占領したが、1802年の[[アミアンの和約]]締結後にスペインに恒久的に変換返還した。
 
== 脚注 ==