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'''佐々木 氏信'''(ささき うじのぶ)は[[鎌倉時代]]中期の[[武将]]。[[佐々木氏]]支流[[京極氏]]の始祖であり、'''京極 氏信'''(きょうごく うじのぶ)とも呼ばれる。父は[[佐々木信綱]]、母は[[北条義時]]の娘とされる。[[佐々木重綱|大原重綱]]、[[佐々木高信|高島高信]]、[[佐々木泰綱|六角泰綱]]の弟。子に[[佐々木頼氏|頼氏]]、[[佐々木範頼|範頼]]、[[佐々木満信|満信]]、[[佐々木宗綱|宗綱]]。
 
== 生涯 ==
承久2年(1220年)、後に[[近江国|近江]]の[[守護]]へと任ぜられる佐々木信綱と、その正室である[[執権]]北条義時の娘との間に4男として生まれたとされるが、母は[[武蔵国]]河崎庄の荘官の娘とする説もある。
 
[[仁治]]3年([[1242年]])に父が死去し、[[江北]]に在る[[高島郡 (滋賀県)|高島]]、[[伊香郡|伊香]]、[[浅井郡|浅井]]、[[坂田郡|坂田]]、[[犬上郡|犬上]]、[[愛 (滋賀県)|愛智]]の六郡と[[京都]]の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようになり、[[江南]]と京都の六角堂近くの館を継いだ三兄の泰綱は佐々木本家を継ぎ[[六角氏]]の祖となる。長兄の重綱と次兄の高信も坂田郡のうち[[大原庄]]と高島郡田中郷を相続、[[大原氏]]・[[高島氏]]の祖となる。
 
[[文永]]2年([[1265年]])に[[引付衆]]、翌年には[[評定衆]]に加わり、[[弘安]]6年([[1283年]])には[[国司|近江守]]へと任ぜられ、この頃には後に京極氏の菩提寺となる[[徳源院|清滝寺]](後の徳源院)を創建している。永仁3年(1295年)5月3日に76歳で死去。