「ウルリヒ (ヴュルテンベルク公)」の版間の差分

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[[ファイル:900-121 Herzog Ulrich.jpg|thumb|ヴュルテンベルク公ウルリヒ]]
[[ファイル:Reichenweier-herzog-ulrich.jpg|thumb|[[リクヴィール]]にあるウルリヒの記念額]]
'''ウルリヒ'''('''Ulrich von Württemberg''', [[1487年]][[2月8日]] - [[1550年]][[11月6日]])は、[[ヴュルテンベルク]][[ヴュルテンベルク君主一覧|]](在位:[[1498年]] - 1550年)。
 
== 生涯 ==
[[ヴュルテンベルク|ヴュルテンベルク=シュトゥットガルト]][[ヴュルテンベルク君主一覧|]][[ウルリヒ5世 (ヴュルテンベルク伯)|ウルリヒ5世]]の次男である[[モンベリアル伯の一覧|メンペルガルト]][[モンベリアル伯の一覧|伯]][[ハインリヒ (ヴュルテンベルク=メンペルガルト伯)|ハインリヒ]]と、その最初の妻で[[ツヴァイブリュッケン=ビッチュ]]伯家出身のエリーザベトの間の一人息子として生まれた。母はウルリヒの出生の10日後に亡くなった。ウルリヒは出生時の洗礼名をアイテル・ハインリヒ(Eitel Heinrich)といったが、[[堅信礼]]に際してウルリヒと改名した。
 
1498年に伯父のヴュルテンベルク公[[エーバーハルト2世 (ヴュルテンベルク公)|エーバーハルト2世]]が[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の策謀で廃位された時、わずか11歳だった甥のウルリヒが後継者に指名され、[[1503年]]には公爵としての親政を開始した。ウルリヒは後ろ盾であるマクシミリアン1世につき従い、[[1504年]]には[[バイエルン大公|バイエルン公国]]で起きた[[ランツフート継承戦争]]に参加、[[1508年]]にはマクシミリアン1世による不首尾に終わった[[ローマ]]遠征にも随行した。また[[1513年]]には皇帝軍と一緒に[[フランス王国|フランス]]に侵攻している。一方、ウルリヒは領国ヴュルテンベルクでは非常に不人気な為政者だった。公爵の贅沢のせいで公国では大幅な増税をせねばならず、領民達はウルリヒの強引な税の取り立て方法に不満を募らせていった。[[1514年]]、ついに[[貧民コンラートの乱]]と呼ばれる農民一揆が発生したが、ウルリヒは領邦等族に対して上納金を支払わせる代わりに重要な政治的譲歩をしたため、一揆はすぐに鎮圧された。他方、ウルリヒと[[シュヴァーベン同盟]]との関係もひどく険悪なもので、一揆鎮圧後のウルリヒはシュヴァーベン同盟との抗争に巻き込まれることになる。
 
[[1511年]]、ウルリヒは[[バイエルン|バイエルン公]][[アルブレヒト4世 (バイエルン公)|アルブレヒト4世]]と妃[[クニグンデ・フォン・エスターライヒ|クニグンデ]]の娘でマクシミリアン1世の姪でもある[[ザビーナ・フォン・バイエルン|ザビーナ]]と結婚した。この結婚は完全な失敗で、ウルリヒはハンス・フォン・フッテン([[ウルリヒ・フォン・フッテン]]の親戚)という騎士の妻を愛人にし、[[1515年]]には口論の末にフッテンを殺害した。フッテンの死はウルリヒに対する臣民達の不満をさらに増幅させた。一方、妻ザビーナは伯父のマクシミリアン1世と弟のバイエルン公[[ヴィルヘルム4世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム4世]]の手助けで暴力を振るう夫の許から逃れようとし、ウルリヒは2度も帝国追放令を受けた。
 
[[1519年]]7月にマクシミリアン1世が死ぬと、シュヴァーベン同盟はついにウルリヒとの戦争を起こし、ウルリヒをヴュルテンベルクから追放した。同盟はその後、ヴュルテンベルク公国を神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に売却した。ウルリヒに仕えていた騎士[[ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン]]はシュヴァーベン同盟と戦うも敗北、[[ハイルブロン]]に監禁され、後にカール5世に仕えた。
 
亡命者となったウルリヒは[[スイス]]、フランス、[[ドイツ]]諸国を放浪する日々を送り、追い剥ぎをしたり、[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]][[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に仕えたりして暮らした。しかしウルリヒはヴュルテンベルクを奪還する希望を捨ててはおらず、[[1523年]]頃には福音派([[ルーテル教会|ルター派]])に改宗した。復権の機会は[[ドイツ農民戦争]]の発生とともに訪れた。下層階級の味方を装って「貧農ウルリヒ」などと署名をするウルリヒを、かつてウルリヒ自身の課した重税に苦しめられたことなど忘れていた農民達は喜んで迎えた。[[1525年]]2月、フランスやスイスから金と兵士をかき集めたウルリヒはヴュルテンベルクに攻め込んだが、スイス傭兵は[[パヴィアの戦い]]で本来の雇い主であるフランソワ1世が捕虜になったと知ると故国に帰ってしまった。農民軍もまったく当てにならず、ウルリヒは数週間後には撤退、逃亡した。
 
放浪生活のあいだ、ウルリヒは[[ヘッセン方伯|ヘッセン]][[ヘッセンの統治者一覧|伯]][[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]と親しい友人になった。ウルリヒの復権はヘッセン方伯フィリップの力で実現するのだが、この復権劇はドイツ宗教改革の政治史においてある程度の役割を果たした。フィリップは[[1526年]]に亡命中のウルリヒを復権させたいとの宣言を出し、これに呼応してフランス王フランソワ1世と[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]も、[[ハプスブルク家]]に対する総攻撃のチャンスと見てこれを支援する意思のあることを示した。しかしその他にも様々な障害があり、フィリップが実際に行動を起こしたのは[[1534年]]になってからであった。
 
1534年1月、フランソワ1世はウルリヒの復権計画に対する支援をはっきりと約束した。またシュヴァーベン同盟もこの時期にようやく解体した。ウルリヒとフィリップによる復権の正当性を主張する宣言文が出された後、4月に2人はヴュルテンベルクに侵攻した。カール5世と弟の[[ローマ王]][[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]]は自分達の配下の代官に対しわずかな軍勢しか送りこめず、5月13日のラウフェンの戦いでハプスブルク軍は決定的な敗北を喫した。その数週間後にウルリヒはついにヴュルテンベルク公に返り咲き、6月にカーデンで講和条約に関する交渉が行われ、ローマ王フェルディナントはウルリヒをヴュルテンベルク公として認めるが、ヴュルテンベルクは[[ハプスブルク君主国|オーストリア大公国]]の宗主権下におかれることが条件であった。ウルリヒは条約の内容に不満があったものの、ヘッセン方伯フィリップの懇願に屈してカーデン条約に調印した。
 
復位したウルリヒは、[[マルティン・ルター]]とツヴィングリが唱える宗教改革派の宗教信条を領民に押し付け、広める政策に専念した。多くの修道院が破壊され、没収された教会財産は公爵の貧しい国庫を大いに潤した(ウルリヒによる[[カトリック教会|カトリック]]修道院の閉鎖と教会財産の没収は、[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|]][[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]によるそれと全く同じ時期に、きわめてよく似た手口で行われている)。ところがウルリヒは再び領民に重税を強いたため、一時的に獲得した人気も失った。[[1536年]]、ウルリヒは[[シュマルカルデン同盟]]に参加したが、指導者の1人であるヘッセン方伯フィリップのカール5世を失墜させようとする目論見には賛成しなかった。
 
[[シュマルカルデン戦争]]中、ウルリヒの軍隊は皇帝軍と戦ったが、ヴュルテンベルクに酷い災難をもたらすことになった。ヴュルテンベルク公国はすぐに皇帝軍に占領され、ウルリヒは[[1547年]]にハイルブロンの講和条約に合意せざるを得なくなった。この条約においてカール5世は、ウルリヒを再び廃位させてほしいとするローマ王フェルディナントの望みは無視し、ウルリヒが今後も公国を統治することを認めた。しかしカール5世はウルリヒに多額の賠償金を支払うこと、公国内のいくつかの要塞を破壊すること、そしてウルムにおいて皇帝の前で嘆願を行うことを要求した。結局、[[1548年]]5月に[[アウクスブルク]]でハイルブロン条約の仮条約に調印をさせられたウルリヒは1550年11月に[[テュービンゲン]]で死去し、一人息子の[[クリストフ (ヴュルテンベルク公)|クリストフ]]が後を継いだ。
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{{succession box|
before=[[エーバーハルト2世 (ヴュルテンベルク公)|エーバーハルト2世]]|
title=[[ヴュルテンベルク君主一覧|]][[ヴュルテンベルク君主一覧|公]]|
years=1498年 - 1550年|
after=[[クリストフ (ヴュルテンベルク公)|クリストフ]]
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[[Category:ヴュルテンベルク公]]
[[Category:モンベリアル伯]]
[[Category:ヴュルテンベルク=シュトゥットガルト家]]
[[Category:幼君]]
[[Category:1487年生]]