「越後交通長岡線」の版間の差分

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{{BS3||exABZfg|exKBHFr|38.0|''寺泊海水浴''||}}
{{BS|exBHF|38.5|''寺泊温泉''||}}
{{BS|exKBHFe|39.2|''[[寺泊駅(初代) (越後交通)|寺泊]] (I)''||}}
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路線の選定に関して、地元では鉄道により疫病や犯罪がもたらされる迷信や、[[蒸気機関]]の煤煙・騒音等を危惧して敷設反対の動きが根強くあったため、与板以外は街中に敷設できずほぼ全線が田園地帯を走っていたと[[鉄道忌避説]]により説明される<ref>このように鉄道の路線が主要な集落を外れていることを説明するための鉄道忌避説は後世の後付けであるとの指摘がある。[[青木栄一]] (2006)『鉄道忌避伝説の謎:汽車が来た町、来なかった町』。</ref>。与板付近は線路自体は街中を通っていたものの、駅は街外れに設置されたために利便性が悪かった。また長岡鉄道の開業により、それまで旅客・貨物輸送の中心を担っていた信濃川・[[黒川]]を利用した船運は衰退を余儀なくされている。
 
その後国鉄[[長岡駅]]への乗り入れが無く、非電化路線であることから運行速度の遅い長岡鉄道は深刻な赤字に悩まされる。そのため[[1950年]]([[昭和]]25年)に経営再建のために[[衆議院議員]]であった[[田中角栄]]が社長に就任し、[[1951年]](昭和26年)より高速化のために全線電化が行われた。この成果により田中は当時疎遠であった[[三島郡_ (新潟県)|三島郡]]を票田とすることに成功する。その後[[1960年]](昭和35年)長岡鉄道・[[越後交通栃尾線|栃尾鉄道]]・中越自動車の三社合併により[[越後交通]]となると'''長岡線'''と改称された。通勤・通学のみならず夏になると寺泊方面に行く海水浴客で賑わい、客車も「[[マッチ]]箱」の愛称で親しまれていた。しかし長岡市中心部への接続がない当線は、自家用車の普及や需要の減少により乗客数は減り続け、まず[[1975年]](昭和50年)に旅客営業が廃止され、貨物専業<!-- 「専用線」は別の意味があります -->に転換。その後も区間を縮小しながらも営業を続けたものの、こちらも既に需要が頭打ちであった。そして[[1995年]]([[平成]]7年)、全線が廃止となった。鉱山、臨海臨港鉄道の類を除けば、旅客営業の廃止後20年に渡り貨物営業のみが行われていたのは、日本では珍しい例である。また1960年(昭和35年) - [[1972年]](昭和47年)においては[[西長岡駅]]より[[日産化学工業]]長岡工場専用線が存在していたが、1972年(昭和47年)に[[工場]]閉鎖に伴い廃止された。
 
旅客営業廃止後も多くの区間で線路・架線は残され、地元では「いつかまた角さん(かつての社長である田中角栄)が長鉄を走らせてくれる」とまことしやかな噂も流れた(実は撤去費用の問題がネックとなっていた)。事実、越後交通側も廃線後数年間は路線復活を検討したこともあったが、結局コストや設備面、そして採算性の問題で構想は立ち消えとなった。また、廃線跡をサイクリングロード化しようとする計画が周辺町村の間で上ったが、[[市町村合併]]に伴い計画自体は凍結されている。なお、沿線の旧市町村はいずれも長岡市に[[日本の市町村の廃置分合#合体(新設合併)と編入(編入合併)|編入合併]]されている。
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|'''[[寺泊駅(初代) (越後交通)|寺泊駅]]'''(初代)
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