「赤松光範」の版間の差分

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| 幕府 = [[室町幕府]][[摂津国|摂津]][[守護]]
| 主君 = [[足利尊氏]]→[[足利義詮|義詮]]→[[足利義満|義満]]
| 氏族 = [[赤松氏]]→[[七条氏]]
| 父母 = 父:[[赤松範資]]
| 兄弟 = '''光範'''、[[赤松朝範|朝範]]、[[赤松直範|直範]]、[[赤松師範|師範]]、[[赤松則弘|則弘]]、[[赤松則春|則春]]、[[赤松則縄|則縄]]
| 妻 =
| 子 = [[赤松七条満弘|満弘]]
| 特記事項 =
}}
 
'''赤松 光範'''(あかまつ みつのり)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]、[[守護大名]]。[[摂津国|摂津]]守護。[[赤松範資]]の嫡男で[[赤松則村]](円心)の孫に当たる。兄弟に[[赤松朝範|朝範]]、[[赤松直範|直範]]、[[赤松師範|師範]]、[[赤松則弘|則弘]]、[[赤松則春|則春]]、[[赤松則縄|則縄]]。子に[[赤松七条満弘|満弘]]。官位は[[信濃国|信濃]]守。京都七条の屋敷に住んでいたため、'''七条 光範'''(しちじょう みつのり)とも称される。
 
[[正平 (日本)|正平]]5年/[[観応]]元年([[1350年]])と翌年の正平6年/観応2年([[1351年]])に祖父と父が相次いで亡くなり、摂津は光範に受け継がれたが、家督と播磨は叔父の[[赤松則祐|則祐]]に移った。正平7年/観応3年([[1352年]])に[[南朝 (日本)|南朝]]が[[京都]]を襲撃する事態が発生すると、[[近江国|近江]]に逃れた[[足利義詮]]の召集命令に応じて叔父と共に[[北朝 (日本)|北朝]]に味方し京都を奪回、男山包囲戦にも加わった([[八幡の戦い]])。
 
正平14年/延文4年([[1359年]])の南朝征討にも従軍したが、翌年に摂津守護職を[[佐々木道誉]]に交替させられた。正平18年/[[貞治]]2年([[1363年]])に摂津守護に再任されたが、[[文中]]23年/[[応安]]67年([[13731374年]])に[[細川頼元]]に替えられた。弘和元年/永徳元年(1381年)10月3日に死去、[[享年]]62。
 
子孫は[[七条氏]]として存続、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[赤松義村]]が惣領家の家督を継承した。