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;8.[[ペンシルベニア大学]](1958年~不明)
*[[ペンシルベニア大学]][[教授]]となり、アメリカ経済のモデルに再び着手する。ウォートン・モデルのあと、共同プロジェクトであるブルッキングス・モデル(SSRC=ブルッキングス・モデル)において[[アルゴリズム]]を考案し、後の世代の人々が自由に操ることが可能になった。1963年、ミッシェル・エバンズ教授が加わり、彼のモデルと、ウォートン・モデルを融合させた結合モデルが作られ、「ウォートン計量経済予測ユニット」は大成功となった。
*アメリカで知己なっていた[[森嶋通夫]]と[[市村真一]]の企画に加わり、新しい『インターナショナル・エコノミック・レビュー』の創刊に努力した。また、1960年から何度も日本に招聘され、[[新開陽一]]と共に[[大阪大学]]のモデル作成プログラムに参加した。
*イギリスと日本の経験によって、国際的なモデルの構築に向かった。1966年、アルゼンチン、ブラジル、メキシコのモデルを作った。その後、多くの国のモデルが作られたが、それらの研究から「国民経済モデルの国際連結モデル」というプロジェクト、LINKが生まれた。