「張大千」の版間の差分

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若い頃より伝統的な中国画の技法の修行を積んだが[[1917年]]、19歳の時に日本の[[京都]]へ留学し、京都芸術専門学校で3年間染色を学んだ。[[1920年代|1920]]~[[1930年代|30年代]]には上海等での個展で認められ、南張(南に張あり)とたたえられた。楊継仁著『張大千伝』(文化芸術出版社、[[1985年]])によれば、[[1931年]]に「唐宋元明中国画展」代表として日本を短期訪問している。[[1933年]]には中央大学芸術専攻教授を務め[[1936年]]に上海中華書局が「張大千画集」を出版、徐悲鴻が序を書き500年に1人の画家と称賛される。
 
[[1940年]]から約2年7ヶ月に渡り[[敦煌市|敦煌]]の[[莫高窟]]に住み込み、[[壁画]]の模写に取り組む。模写は、芸術的で美しい作品となるように古ぼけた各時代の壁画の変色・剥落した部分を推定で補いながら制作された。ちなみに敦煌莫高窟における最初の模写を行ったのは、大千であるとされる。[[1942年]]にその成果が発表されるが、それによって敦煌壁画の素晴らしさが大きく広まることになった。
 
[[1948年]]に[[香港]]に移り、以降は[[ブラジル]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]など国外に20年以上滞在する。[[1951年]]にアルゼンチンに移り、[[1953年]]にブラジルに移住している。海外で当時流行していた印象派や立体派などに触れ、中国画に西洋の技法を取り入れた作品を制作し始める。[[1957年]]、「秋海棠」という作品が評価され、ニューヨーク国際芸術学会において金賞を受賞。[[1959年]]にはかねてからの眼病の治療のため渡米するついでに日本に立ち寄り、在英の中国人作家・凌叔華([[1900年]]~[[1990年]])と画家の王済遠(1893年~1972年)と鎌倉旅行を行っている。[[1974年]]にアメリカ・カリフォルニア州太平洋大学名誉人文博士号を授与される。[[1978年]]に[[台湾]]に移住。晩年は台北に住み水墨画に専念、1983年4月2日、同地で心臓病により没。享年84。没後、遺族が四合院式の住居を台湾の国立故宮博物館に寄贈し、張大千紀念館(台北市士林区至善路二段三百四十二巷二号)として現在一般公開されている。
 
==贋作者としての張大千==
張大千は紛れも無く一流の画家だが、困った事に贋作者としても有名である。[[1999年]]、ニューヨークのメトロポリタン・ミュージアム蔵の[[董源]]作「渓岸図」軸について、これが大千の[[贋作]]かどうかについて公開シンポジウムが開かれ大千の贋作であるとする学者、董源の真作であるとする学者双方が論陣を張ったが結局、未決状態になった。程度の低い贋作をもって「大千の作だ」とする者も居るが、大千の贋作は専門の学者が間違えてしまうようなレベルのものであるとされる。
 
代表作に「中郎授女図」、「渓橋行船図」、「撥墨荷花図」などがある。
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