「ナバーラ内戦」の版間の差分

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'''ナバーラ内戦''' ([[スペイン語]]:'''Guerra Civil de Navarra''')は、[[1451年]]に始まった[[ナバーラ王国]]の内戦。
 
==概要父子の対立==
ナバーラ王女ブランカ(のちのナバーラ女王[[ブランカ1世 (ナバラ女王)|ブランカ1世]])は、[[アラゴン王国|アラゴン]]王子フアン(のちの[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]])と2度目の結婚をした。結婚にあたり、ブランカがフアンよりも先に亡くなった場合は2人の間の年長の男子がナバーラ王位を継承することが取り決められた。1441年にブランカ1世が亡くなると、フアンはブランカ1世と2人の間には4子が生まれた世継ぎ・[[ビアナ公]][[カルロス (ビアナ公)|カルロス]]に王位を譲らず、自らがナバーラ王となっていた。ナバーラを不在にするフアンはカルロスをナバーラのルガルテニエンテ(lugarteniente、総督職)にして懐柔しようとしたがベアウモンテセス派([[カルロス3世 (ナバラ王)|カルロス3世]]の庶系であるレリン伯爵を首領とする派閥。親カスティーリャおよびスペイン)ビアナ公カルロスを支持成人、カルロスは反乱を起こした。フアン2世は親アラゴンであるアグラモンテセス派を味方につけた。父子でナバーラ王位継承を競合する状態は、ナバーラ貴族を二分させ敵対させるようになり、強力な隣国である[[カスティーリャ王国]]とアラゴン王国が領土拡張に付け入る隙を与えることとなった。
*[[カルロス (ビアナ公)|カルロス]](1421年-1461年) - [[ビアナ公]]
*[[ブランカ2世|ブランカ]](1424年-1464年)
*[[レオノール (ナバラ女王)|レオノール]](1426年-1479年)
 
1441年にブランカ1世が亡くなると、フアンはブランカ1世との間に生まれた世継ぎカルロス王子に王位を譲らず、自らがナバーラ王となっていた。ナバーラを不在にするフアンはカルロスをナバーラのルガルテニエンテ(lugarteniente、総督職)にして懐柔しようとしたが、ベアウモンテセス派([[カルロス3世 (ナバラ王)|カルロス3世]]の庶系であるレリン伯爵を首領とする派閥。親カスティーリャおよびスペイン)がビアナ公カルロスを支持し、カルロスは反乱を起こした。フアン2世は親アラゴンであるアグラモンテセス派を味方につけた。父子でナバーラ王位継承を競合する状態は、ナバーラ貴族を二分させ敵対させるようになり、強力な隣国である[[カスティーリャ王国]]とアラゴン王国が領土拡張に付け入る隙を与えることとなった。
カルロスは1452年のアイバルの戦いで破れ、拘束されるが釈放された。フアンはカルロスを合法的に廃嫡しようと目論み、カルロスの妹[[レオノール (ナバラ女王)|レオノール]]王女をナバーラ王位継承者とした。ビアナ公カルロスは[[ナポリ王国]]へ向かい、伯父であるアラゴン王[[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]]に仲介を頼んだ。しかし、アルフォンソが1458年に亡くなったため交渉は実を結ばなかった。父フアンがアラゴン王として即位し状況が悪化したのである<ref>Historia del Reino de Navarra en la Edad Media de Jose María Lacarra edita: Caja de Ahorros de Navarra 1975 ISBN 84-500-7465-7 </ref>。
 
カルロスは1452年のアイバルの戦いで破れ、拘束されるが釈放された。フアンはカルロスを合法的に廃嫡しようと目論み、カルロスの妹[[レオノール (ナバラ女王)|レオノール]]王女をナバーラ王位継承者とした。ビアナ公カルロスは[[ナポリ王国]]へ向かい、伯父であるアラゴン王[[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]]に仲介を頼んだ。しかし、アルフォンソが1458年に亡くなったため交渉は実を結ばなかった。父フアンがアラゴン王として即位し状況が悪化したのである<ref>Historia del Reino de Navarra en la Edad Media de Jose María Lacarra edita: Caja de Ahorros de Navarra 1975 ISBN 84-500-7465-7 </ref>。
 
[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]へ向かったカルロスは、カタルーニャのブルジョワの支持を得た。1460年、[[バルセロナ]]にて和平が結ばれた。しかし[[リェイダ]]の包囲戦で再び囚われの身となった。釈放後、フアン2世に反抗心の強いカタルーニャに残ったカルロスは、1461年9月、わずか40歳で急死した。死因は明らかに結核であったが、父親であるフアン2世か、フアン2世の後添え[[フアナ・エンリケス]]に毒殺されたという噂が強く、カタルーニャで暴動が起きた<ref>Esarte, Peter (2001). Navarra, 1512-1530 . Pamplona: Pamiela. ISBN 84-7681-340-6 . </ref>。
 
一方、ビアナ公カルロスの死後、彼の同母妹でレオノール王女の同母姉であるブランカ王女(カスティーリャ王[[エンリケ4世 (カスティーリャ王)|エンリケ4世]]の最初の妃であったが、婚姻無効によってナバーラへ戻っていた)が、カルロスの死後名目上のナバーラ王位につき、[[ブランカ2世]]と呼ばれていた。ブランカ2世は父親であるフアン2世によって投獄されており、1464年にオルテスにて毒殺された。
 
1467年、レオノール王女はフアナ・エンリケスと会談を行い、レオノールがナバーラを継承する替わりにアラゴン王位継承権を放棄することとなった。フアナの目的は、自らが生んだフェルナンド王子(のちのアラゴン王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]])がアラゴン王位とカスティーリャ王位、そしてナバーラ王位を得ることにあった(フェルナンドは1469年にカスティーリャ王女[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル]]と結婚する)。1468年、フアン2世はレオノール王女に対し、父親である自分の利益に反したり、許可なしに行動することはできないと脅した。パンプローナ司教エチェバリが暗殺されると、レオノール王女と夫の[[ガストン4世 (フォワ伯)|ガストン・ド・フォワ]]は、フアン2世に対して反乱を起こした。しかし、フアン2世とフアナ・エンリケスに有利な情勢であった。
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エンリケ4世の死後、カスティーリャの共同統治王であったフェルナンド2世は、父フアン2世の存命中からナバーラに内政に介入していた。1476年、ナバーラを長く二分してきたベアウモンテセス派とアグラモンテセス派の和平文書において、彼は『神の恵みにおいて、ナバーラ王、カスティーリャ王、レオン王、ポルトガル王、シチリア王国およびアラゴン王国の長子』(por la gracia de Dios, rey de Navarra, Castilla, León, Portugal, Sicilia y primogénito de Aragón)と自ら称し、父と異母姉レオノールに挑んだのである。
 
==フアン2世死後==
1479年にフアン2世が死に、レオノールが即位したが、彼女は即位後15日で死去した。フランスの後ろ盾を持つ幼い孫の[[フランシスコ・フェボ]]が、母[[マドレーヌ・ド・フランス (ビアナ公妃)|マドレーヌ・ド・フランス]]の摂政のもとで即位した。[[カトリック両王]]は、フランシスコ・フェボの妹である[[カタリナ (ナバラ女王)|カタリナ]]を[[アストゥリアス公]][[フアン (アストゥリアス公)|フアン]]と結婚させようと圧力をかけるが失敗した。1483年にフランシスコ・フェボが夭折すると、カタリナが即位し、[[フアン3世 (ナバラ王)|ジャン・ダルブレ]]と結婚した。
 
1486年、フェルナンド2世はナバーラの前線に軍隊を送った。1488年にナバーラ王とカトリック両王によって結ばれたバレンシア条約では、カタリナ女王の同意なしに貿易のため国境が開かれること、スペイン軍のナバーラ駐留が決められた。カタリナとジャン・ダルブレの戴冠式は、カトリック両王の妨害で実現が遅れた。ナバーラとガスコーニュは独自の軍を持つことが禁じられ、ナバーラの知事や兵士たちはカトリック両王に忠誠を誓うよう強制された。カトリック両王の許可なしに、ナバーラ王の息子の結婚が決められないとされた。国内にスペイン軍が駐留した状態で、1494年1月13日、女王カタリナとジャン・ダルブレの戴冠式が挙行された。
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1500年以降、ナバーラ王家の子孫とカトリック両王の家族との結婚が模索された。寡夫となったフェルナンド2世は、後添えとしてナバーラ王家の血を引く[[ジェルメーヌ・ド・フォワ]]を選んだ。
 
==カスティーリャ併合==
1512年、フェルナンド2世はベアウモンテセス派と同盟し、ナバーラ王国のピレネー南麓へ侵攻し、短期間で占領した。ナバーラ内戦の矛盾は、イサベル1世の死後カスティーリャ[[摂政]]となっていたフェルナンド2世が、かつてベアウモンテセス派が王と認めず反乱を起こしたフアン2世と2度目の妃フアナ・エンリケスの息子であったことである。もう一つの矛盾は、アラゴン王であるフアン2世からナバーラ王国の独立を守ろうと立ち上がった人々が、フアン2世の死後にカスティーリャの同盟者となったことである。カスティーリャによる占領後、アグラモンテセス派は多数が弾圧された。1515年に[[ブルゴス]]で開かれたカスティーリャの[[コルテス (身分制議会)|コルテス]]において、ナバーラの併合が決定された。
 
その後、フランスの支援を受けたアグラモンテセス派はナバーラを奪還しようと、1512年、1516年、1521年の3度試みた。最後の1521年の[[パンプローナ]]蜂起では、ベアウモンテセス派貴族も含め幅広く参加した。このとき、ナバーラ王国全体の解放が確定する寸前まで至った。しかしパンプローナ近郊のノアインの戦いで、カスティーリャ軍は再びナバーラを平定した。