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1500年以降、ナバーラ王家の子孫とカトリック両王の家族との結婚が模索された。寡夫となったフェルナンド2世は、後添えとしてナバーラ王家の血を引く[[ジェルメーヌ・ド・フォワ]]を選んだ。
 
==カスティーリャ併合==
1512年、フェルナンド2世はベアウモンテセス派と同盟し、ナバーラ王国のピレネー南麓へ侵攻し、短期間で占領した。ナバーラ内戦の矛盾は、イサベル1世の死後カスティーリャ[[摂政]]となっていたフェルナンド2世が、かつてベアウモンテセス派が王と認めず反乱を起こしたフアン2世と2度目の妃フアナ・エンリケスの息子であったことである。もう一つの矛盾は、アラゴン王であるフアン2世からナバーラ王国の独立を守ろうと立ち上がった人々が、フアン2世の死後にカスティーリャの同盟者となったことである。カスティーリャによる占領後、アグラモンテセス派は多数が弾圧された。1515年に[[ブルゴス]]で開かれたカスティーリャの[[コルテス (身分制議会)|コルテス]]において、ナバーラの併合が決定された。