「ムハンマド・ダーウード」の版間の差分

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弾圧は当初彼の改革を支持していた[[アフガニスタン人民民主党]]のパルチャム派にも及び、彼らは政府から追い出された。1978年4月27日、アフガニスタン人民民主党支持者の将校が指揮する数台の戦車、3機の飛行機及び歩兵の小部隊が軍事[[クーデター]]を起こし、翌28日、彼は革命派将校により殺害された。その後、遺体はどこかへと持ち去られ、最近まで所在が分からなくなっていたが、ダーウードを殺害した元革命派将校が「当時、革命派の拠点だった軍の駐屯地の庭に埋めた」と証言し、2008年に同地で30年ぶりに遺体が発見された<ref>http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009031701000677.html</ref>。
 
2009年3月18日、ダーウードのために[[カーブル]]で国葬が執り行われた。国葬にはカルザイ大統領や政府閣僚、ダーウードの孫も出席した。近年、「アフガニスタンが平和だった時の象徴」として、再評価されつつある<ref>読売新聞 2009年3月19日付国際面記事 </ref>。
 
== 脚注 ==