「名護屋城」の版間の差分

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名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には[[松浦党]]の交易拠点の一つであった。ここにはもともと[[松浦党]]の旗頭・[[波多氏]]の一族である名護屋氏の居城、[[垣添城]]があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
 
名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170000170,000平方メートルにわたり築かれた[[平山城]]の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた<ref>学習研究社編『【決定版】図説 よみがえる名城 漆黒の要塞 豊臣の城』 [[学習研究社]] [[平成]]20年([[2008年]])</ref>。
 
秀吉の死後、大陸進攻は中止され城は廃城となったと考えられており、建物は[[寺沢広高]]によって[[唐津城]]に移築されたと伝わる<ref>平井聖監修『城』(九州沖縄 8) 毎日新聞社 平成8年([[1996年]])</ref>。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている<ref>中井均・三浦正幸監修「城を復元する」学習研究社編『よみがえる日本の城30』 学習研究社 平成18年([[2006年]])</ref>。