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'''斯波 家長'''(しば いえなが、[[元応]]2年([[1321年]]) - [[延元]]2年/[[建武 (日本)|建武]]4年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1338年]][[1月16日]]))は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の武将。[[関東管領|関東執事]]、[[奥州総大将]]。[[斯波氏]]当主[[斯波高経]]の子。[[斯波氏経|氏経]]、[[斯波氏頼|氏頼]]、[[斯波義将|義将]]、[[斯波義種|義種]]の兄。[[斯波詮経]]の父(養父?)。通称は孫二郎。志和三郎、尾張弥三郎とも。官位は陸奥守。
 
[[足利尊氏]]に父と共に一門の重鎮として仕えた。[[中先代の乱]]の後、尊氏が[[建武の新政]]に反抗し争乱が勃発すると宮方の[[北畠顕家]]に対抗するため奥州と羽州の軍事指揮権を持つ奥州総大将に任ぜられた。尊氏が[[箱根・竹ノ下の戦い]]で征東軍を破り上洛する際、[[鎌倉]]に残した嫡子[[足利義詮|義詮]]の執事に任ぜられた。しかし、顕家の南下を食い止めるのに失敗し、尊氏が一時敗走する原因を作ってしまった。後に九州を制し再び上洛、[[北朝 (日本)|北朝]]を立てた尊氏を討伐するため、再び大軍を率いて南下してきた顕家を鎌倉で迎え撃つが、またも敗北し戦死した([[杉本城の戦い]])
 
なお、後任の奥州総大将と関東執事には[[石塔義房]]、[[上杉憲顕]]が派遣された。奥州総大将と関東執事は後に[[奥州管領]]、関東管領に発展する。