「ヘンリク2世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
{{Otheruses||同名のチェコあるいはポーランドの領主貴族|ヘンリク}}
[[ファイル:Henryk Pobozny.jpg|right|thumb|250px|[[ワールシュタットの戦い|レグニツァの戦い]]におけるヘンリク2世、[[ヤン・マテイコ]]画]]
'''ヘンリク2世ポボジュヌィ'''([[ポーランド語]]:Henryk II Pobożny;[[ドイツ語]]:Heinrich II der Fromme、[[1196年]]頃 - [[1241年]][[4月9日]])は、[[ピャスト朝]]の[[長子領|ポーランド君主一覧|]][[ポーランド君主一覧|大公]](在位:[[1238年]] - 1241年)。[[シロンスク公国|シロンスク]]=[[ヴロツワフ]]、[[長子領|クラクフ]]、[[ヴィエルコポルスカ県|ヴィエルコポルスカ]]南部の公でもあった(在位:同)。また1238年から[[1239年]]まで[[サンドミェシュ]]及び[[オポーレ公国|オポーレ]]=[[ラチブシュ公国|ラチブシュ]]の2公国の摂政を務めた。ヴロツワフ公[[ヘンリク1世]](髭公)の息子で、母はメラーノ公[[ベルトルト4世 (メラーノ公)|ベルトルト4世]]の娘[[シロンスクのヤドヴィガ|ヤドヴィガ]](後にシロンスクの守護聖人)。'''敬虔公'''(Pobożny)と呼ばれた。
 
== 生涯 ==
=== 共同統治者 ===
[[ファイル:Mon Henrykow Slaskich (1201-1241).JPG|250px|thumb|right|シロンスクのヘンリク父子の王国]]
ヴロツワフ公爵夫妻の次男として生まれたが、兄ボレスワフが[[1206年]]に若くして死んだため公爵家の跡継ぎとなった。その7年後の[[1213年]]、弟の[[コンラト・ケンジェジャヴィ|コンラト]]も狩猟中の事故で悲劇的な死をとげたため、兄弟の居なくなったヘンリクは低地シロンスク全域の相続者となった。[[1218年]]、父ヘンリク1世は息子を[[ボヘミア君主一覧王国|ボヘミア]][[ボヘミア君主一覧|王]][[オタカル1世]]の王女[[アンナ・レフニツカー|アンナ]]と結婚させ、義父との同盟関係によってヘンリクは国政への発言権を持つようになった。
 
ヘンリク1世は唯一生き残っている息子に自分のもつ全財産を受け継がせようとし、[[1222年]]以後、若いヘンリクは父と共に文書に署名するようになり、2年後には独自の印璽と書記をもつようになっていた。[[1227年]]に開催された[[ゴンサヴァ]]での諸公会議でヘンリク1世と[[レシェク1世]](白公)は騙し討ちに遭い、レシェク1世が[[暗殺]]されヘンリク1世も深手を負った。この時、若いヘンリクの手に初めて国家統治が委ねられた。2年後の[[1229年]]にも再び同様の事件が起き、ヘンリク1世は[[マゾフシェ公国|マゾフシェ]][[マゾフシェ公|公]][[コンラト1世 (マゾフシェ公)|コンラト1世]]に捕えられた。
 
父が捕囚中であった時期のヘンリクの統治は、早いうちから父に国家統治を任されていた経験のおかげで、万全なものであった。1229年から[[1230年]]にかけ、ヘンリクは[[レーブス|ルブシュ]]の領地を回復・確保するための遠征を行い、[[1233年]]から[[1234年]]にかけて続いた父の[[プロイセン]]と[[ヴィエルコポルスカ県|ヴィエルコポルスカ]]への遠征をも精力的に援護した。父との共同での政治活動が多くなってきたことで、1234年にヘンリクは公式に父の共同統治者を名のるようになった。同時に、父子は公的には権力を分有することになった。ヘンリク1世はクラクフ([[長子領]])とシロンスクの公を、ヘンリク2世はシロンスクとヴィエルコポルスカの公を名乗ったのである。ヘンリク2世の単独統治は1238年3月19日にヘンリク1世が亡くなってから始まる。
16行目:
父が死んだ時ヘンリク2世は40歳前後だったが、いくつかの難題をも受け継ぐことになった。最初の問題は、彼自身が父から権力を相続することに関する問題だった。ヘンリク1世の強大な権威は、血統による世襲統治地域だった低地シロンスクにしか及んでいなかった。ヴィエルコポルスカ南部とクラクフは長子領で、その統治者の地位はピャスト家の諸公達の中から選ばれる決まりだった(かつてのヴィエルコポルスカ及びクラクフ公だった[[ヴワディスワフ3世ラスコノギ|ヴワディスワフ3世]]は領地の全てをヘンリク1世に譲る内容の遺言状を残していたが、マゾフシェ公コンラト1世と[[ヴワディスワフ・オドニツ]]はこれを無視した)。
 
[[オポーレ公国|オポーレ]]=[[ラチブシュ公国|ラチブシュ]]と[[サンドミェシュ]]については、この地域の統治者である[[ミェシュコ2世オティウィ|ミェシュコ2世]]と[[ボレスワフ5世]]が未成年だったおかげで摂政としての権威を維持することが出来た。1年後の[[1239年]]にヘンリク2世は摂政の地位を追われたものの、オポーレとサンドミェシュの2人の公爵とは良好な関係を保ち、[[カリシュ]]と[[ヴィエルニ]]を領有し続けた。しかし北部での情勢は複雑だった。[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]][[ブランデンブルク統治者の一覧|辺境伯]][[オットー3世 (ブランデンブルク辺境伯)|オットー3世]]はヘンリク1世の死を好機と見て、[[サントク]]の要塞を奪取してルブシュを包囲した。ヘンリク2世はこれを解放するためのルブシュの戦いに敗れ、サントクを喪失した。
 
この騒動の一方で、ヘンリク2世は父が約束していた補償の支払いを迫るマゾフシェ公コンラト1世、ヴワディスワフ・オドニツ及び[[グニェズノ]]大司教ペウカに率いられた教会勢力とのいざこざをも抱えていた。しかしヘンリク2世にとっては幸運なことに、この苦境は1239年6月5日にヴワディスワフ・オドニツが2人の幼い息子[[ボレスワフ・ポボジュヌィ|ボレスワフ]]と[[プシェミスウ1世]]を残して世を去ると同時に一変した。この状況を利用して、ヘンリク2世はグニェズノを含むオドニツの遺領の大部分を奪い取り、オドニツの息子達には[[ナクウォ・ナド・ノテチョン]]と[[ウィシチェ]]のみを安堵した。
39行目:
 
== 子女 ==
[[1218年]]までに[[ボヘミア王国|ボヘミア]][[ボヘミア君主一覧|]][[オタカル1世]]の王女[[アンナ・レフニツカー|アンナ]](1204年頃 - 1265年6月23日)と結婚し、10人の子供をもうけた。
#ゲルトルダ(1218年/1220年頃 - 1247年) - 1232年、[[マゾフシェ公]][[ボレスワフ1世 (マゾフシェ公)|ボレスワフ1世]]と結婚
#コンスタンツィア(1221年頃 - 1257年頃) - 1239年、クヤヴィ公[[カジミェシュ1世 (クヤヴィ公)|カジミェシュ1世]]と結婚
55行目:
*[[シロンスクの歴史]]
 
{{先代次代|[[長子領|ポーランド君主一覧|]][[ポーランド君主一覧|大公]]|1238年 - 1241年|[[ヘンリク1世]]|[[ボレスワフ2世ロガトカ]]}}
{{ポーランド君主一覧}}
{{DEFAULTSORT:へんりく2}}
[[Category:ポーランド公]]
[[Category:シロンスク公]]
[[Category:ヴロツワフ公]]