「プシェミスウ2世 (ポーランド王)」の版間の差分

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| 母親 = エルジュビェタ・ヴロツワフヴナ
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'''プシェミスウ2世'''([[ポーランド語]]:Przemysł II, [[1257年]][[10月14日]] - [[1296年]][[2月8日]])は、[[ポーランド|ポーランド]][[ポーランド国王|王]](在位:[[1295年]] - 1296年)。[[ポズナン]]公(在位:[[1277年]] - 1296年)、[[ヴィエルコポルスカ県|ヴィエルコポルスカ]]公(在位:[[1279年]] - 1296年)、[[長子領|クラクフ]][[ポーランド君主一覧|公]](在位:[[1290年]] - [[1291年]])、[[ポメレリア]]公(在位:[[1294年]] - 1296年)でもあった。
 
== 生涯 ==
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ヴィエルコポルスカ公[[プシェミスウ1世]]と、[[シロンスク公国|シロンスク]]の[[ヘンリク2世]]の娘エルジュビェタの間に長男として生まれた。1277年以前からプシェミスウ2世はポズナン公の地位を得ており、1279年には息子のいないまま亡くなった叔父の[[ボレスワフ・ポボジュヌィ|ボレスワフ]](敬虔公)からヴィエルコポルスカ公の座を引き継いだ。
 
しかし、1277年に[[レグニツァ公国|レグニツァ]]公[[ボレスワフ2世ロガトカ|ボレスワフ2世]]が[[ローマ王|ドイツ王]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]と同盟、甥の[[ヴロツワフ]]公[[ヘンリク4世]]を誘拐したことに抗議、[[グウォグフ公国|グウォグフ]]公[[ヘンリク3世 (グウォグフ公)|ヘンリク3世]]、[[ボヘミア王国|ボヘミア]][[ボヘミア君主一覧|]][[オタカル2世]]と同盟してボレスワフ2世と息子の[[ヤヴォル公国|ヤヴォル]]公[[ヘンリク5世ブジュハティ|ヘンリク5世]]に挑んだが、[[ストレツの戦い]]で敗れてヘンリク3世と共に捕虜となった。[[1281年]]にはヘンリク4世に捕らえられ、[[ヴィエルニ]]の割譲と臣従を余儀なくされた。
 
プシェミスウ2世は1282年のケンプノの和約と秘密外交によって、子供のない親族の1人である[[ポメレリア]](東[[ポモジェ]])の公[[ムシチュイ2世]]の共同統治者となった。[[1287年]]には、西ポモジェ公[[ボグスワフ4世 (ポモジェ公)|ボグスワフ4世]]とも同盟し、ポモジェに対する影響力を強めた。1294年にはムシチュイ2世の死に伴い、[[グダニスク]]を相続した。
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== 結婚 ==
# 1273年 - メクレンブルク公ハインリヒ1世の娘ルドガルダ、子供なし
# 1285年 - [[スウェーデン君主一覧|]][[スウェーデン君主一覧|王]][[ヴァルデマール1世 (スウェーデン王)|ヴァルデマール1世]]の娘[[リキッサ・ヴァルデマールスドッテル|リキッサ]]、間に娘[[リクサ・エルジュビェタ]]をもうけた
# 1293年 - [[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]][[ブランデンブルク統治者の一覧|辺境伯]][[アルブレヒト3世 (ブランデンブルク辺境伯)|アルブレヒト3世]]の娘マルグレーテ、子供なし
{{commonscat|Przemysł II of Poland}}
 
{{先代次代|[[ポーランド|ポーランド]][[ポーランド国王|王]]<br>[[長子領|クラクフ]][[ポーランド君主一覧|]]|1295年 - 1296年|[[ヘンリク4世]]|[[ヴァーツラフ2世|ヴァツワフ2世]]}}
{{ポーランド君主一覧}}
 
{{History-stub}}
{{DEFAULTSORT:ふしえみすう2}}
[[Category:ポーランド公]]
[[Category:ポーランド国王]]
[[Category:ポズナン公]]