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|経歴 = <nowiki></nowiki>
* [[中京大学附属中京高等学校|中京高等学校]]
* [[亜細亜大学硬式野球部|亜細亜大学]]
* [[NTT西日本硬式野球部|NTT東海]] (1987 - 1997, 1999)
* NTT西日本名古屋野球クラブ (2000 - 2002)
|経歴補足題 = 監督・コーチ歴
|経歴補足 = <nowiki></nowiki>
* NTT東海 (1998)
* [[愛知ベースボール倶楽部]] (2003 - 2007)
* [[豊川高等学校]]
|代表チーム = {{Flagicon|JPN}} [[野球日本代表|日本]]
|五輪 = [[アトランタオリンピックにおける野球競技|1996年]]
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{{MedalSilver|[[アトランタオリンピック|1996]]|野球}}
{{MedalBottom}}
'''森 昌彦'''(もり まさひこ、[[1965年]][[8月25日]] - )は、日本の元[[社会人野球]]選手([[投手]])、野球指導者である。ポジショ[[アトラタオリンピック野球日本代表|アトランタオリンピック代表]]で投手[[リリーフ]]を務めた
 
==人物・経歴==
===学生時代===
[[愛知県|愛知]]・[[中京大学附属中京高等学校|中京高等学校]]では[[野中徹博]]、[[紀藤真琴]]に次ぐ3番手投手で[[全国高等学校野球選手権|夏の甲子園]]に出場も登板機会は無し。その後[[亜細亜大学]]に進学。亜大では[[与田剛]](その後[[中日ドラゴンズ|中日]]など)と共に活躍、大学卒業後はNTT東海(現[[NTT西日本硬式野球部|NTT西日本]])に進む。
[[桑名市伊曽島小学校|伊曽島小学校]]で3年生の時に[[野球]]を始め、肩が強いため投手になった<ref name="mainichi_20030621"/>。その後[[桑名市立長島中学校|長島中学]]から[[中京大学附属中京高等学校|中京高等学校]]に進んだ。球威はあったものの下半身が十分に鍛えられておらず制球力に課題を抱え<ref name="mainichi_19960627">毎日新聞、1996年6月27日付朝刊、P.27</ref>、同級生の[[野中徹博]]や[[紀藤真琴]]の存在があって3番手投手となっていた。在学中は[[選抜高等学校野球大会|春]]や[[全国高等学校野球選手権|夏の甲子園]]に出場したものの、公式戦での登板機会は2年秋季の東海地区大会での1イニングだけだった<ref name="mainichi_20030621">毎日新聞、2003年6月21日付朝刊、愛知地方面</ref>。
 
高校卒業後は[[亜細亜大学]]に進学し、[[亜細亜大学硬式野球部|野球部]]の同期には[[与田剛]]がいた。1学年上にエースである[[阿波野秀幸]]がおり、最終学年になると[[小池秀郎]]や[[川尻哲郎]]が入学してきたため登板機会は少なかった<ref name="mainichi_19960627"/>。右ヒジを痛めていたこともあって控え組に所属してランニングなどを重ね、打撃投手を務めていたという<ref name="mainichi_19960627"/>。4年秋の[[東都大学野球連盟|東都リーグ]]では[[リリーフ]]で初勝利を挙げ<ref name="mainichi_19960627"/>、これが自身にとってリーグ戦唯一の勝利となった<ref name="mainichi_19940802"/>。
[[1994年]]の[[第65回都市対抗野球大会|都市対抗野球大会]]では、[[Honda鈴鹿硬式野球部|本田技研鈴鹿]]の補強選手として出場し、[[橋戸賞]]を受賞。全日本のメンバーに選ばれ、[[1994年アジア競技大会|広島アジア大会]]金メダル獲得にも貢献した。[[1996年]]には[[アトランタオリンピック]]にも出場し銀メダルを獲得している。
 
===社会人野球===
引退後はNTT東海のコーチとなり、[[岩瀬仁紀]](現・中日)らを指導。チームの統廃合後は[[西日本電信電話|NTT西日本]]で社業に就く傍ら、[[特定非営利活動法人]] 日本総合スポーツ&セキュリティー支援協会コーディネーターとして後進の指導に当たっている。<br>
大学卒業後は[[NTT西日本硬式野球部|NTT東海]]に進み、1年目の{{by|1987年}}から本格派の主力投手として期待され<ref name="mainichi_19960627"/>、6月の[[第58回都市対抗野球大会|都市対抗]]東海北陸予選で先発として起用されたが、制球に苦しみ6安打6失点の内容で4回で降板し悔しさのあまり涙を流したという<ref name="mainichi_19960628">毎日新聞、1996年6月28日付朝刊、P.26</ref>。その後は[[筋力トレーニング]]の積み重ねなどによって投球フォームが安定するとともにヒジ痛が解消し<ref name="mainichi_19960628"/>、コントロールも改善されていった。
2003年より[[愛知ベースボール倶楽部]]の監督に就任、[[2007年]]にはチームを[[全日本クラブ野球選手権]]へ初出場させている。
 
2008年より、[[豊川高等学校]]の野球部監督に就任。
{{by|1993年}}にはチームの2枚看板となる<ref>毎日新聞、1994年4月19日付朝刊、長野地方面</ref>も右ひざ[[半月板]]を損傷し、監督からは年齢を考慮して引退も勧められたが<ref name="mainichi_19940802">毎日新聞、1994年8月2日付朝刊、P.13</ref>、秋に手術を受けて順調な回復を見せた。{{by|1994年}}の[[第65回都市対抗野球大会|都市対抗野球大会]]では、[[Honda鈴鹿硬式野球部|本田技研鈴鹿]]の補強選手として出場し、橋戸賞を受賞。同年の[[1994年アジア競技大会における野球競技|広島アジア大会]]で初めて[[野球日本代表|日本代表]]に選ばれた。同大会ではリリーフを務め、決勝の対[[野球韓国代表|韓国]]戦で5回2死から3回2/3を投げて逆転勝ちを呼び込む<ref name="mainichi_19941020">毎日新聞、1994年10月20日付朝刊、愛知地方面</ref>など、金メダル獲得に貢献した。
 
{{by|1995年}}は[[西濃運輸硬式野球部|西濃運輸]]の補強選手として[[第66回都市対抗野球大会|都市対抗]]に出場。また同年は[[第18回アジア野球選手権大会|アジア選手権]]の代表に選ばれ、クローザーを任された。最終日の対韓国戦で[[舩木聖士]]を5回途中から救援して9回まで無失点に抑え、これがチームのサヨナラ勝ちに結びついている<ref name="mainichi_19960626">毎日新聞、1996年6月26日付朝刊、P.25</ref>。また、10月には[[キューバ]]で開催された[[IBAFインターコンチネンタルカップ]]にも派遣された。{{by|1996年}}には[[アトランタオリンピック野球日本代表|アトランタ五輪野球日本代表]]に最年長選手として選ばれた<ref name="mainichi_19960626"/>。[[アトランタオリンピックにおける野球競技|本大会]]では右ひじ痛のため当初は予選後半から出場する予定だった<ref>朝日新聞、1996年7月20日付朝刊、P.27</ref>が、第1戦の対[[野球オランダ代表|オランダ]]戦から登板した。同大会ではチーム最多の6試合に登板してチームトップの[[防御率]]4.50を記録し<ref name="takarajima_94">別冊宝島、1545号、P.94</ref>、銀メダル獲得に貢献している。
 
{{by|1997年}}は[[[昭和コンクリート工業|昭和コンクリート]]の補強選手として[[第68回都市対抗野球大会|都市対抗]]に出場し、10年連続出場の表彰を受けた<ref>毎日新聞、1997年7月1日付朝刊、愛知地方面</ref>。同年で現役を引退して{{by|1998年}}はコーチを務め、[[岩瀬仁紀]]に[[スライダー_(球種)|高速スライダー]]を伝授している<ref>毎日新聞、2009年5月23日付朝刊、愛知地方面</ref><ref>朝日新聞、2011年6月13日付夕刊、中部地方版P.8</ref>。NTTの組織再編に伴って野球部の廃部が決まったことを受け、{{by|1999年}}に現役に復帰した。{{by|2000年}}からはNTT西日本名古屋野球クラブに所属して[[西日本電信電話|NTT西日本]]で社業の営業活動を行いながら現役を続け、同年は西濃運輸の補強選手として[[第71回都市対抗野球大会|都市対抗]]に出場している<ref>毎日新聞、2000年7月19日付朝刊、P.20</ref>。{{by|2002年}}の都市対抗予選をもってNTT西日本名古屋野球クラブも解散となり、最終戦に登板した<ref>毎日新聞、2002年6月30日付朝刊、愛知地方面</ref>。
 
===現役引退後===
{{by|2003年}}より[[愛知ベースボール倶楽部]]の監督に就任し、{{by|2007年}}にはチームを[[全日本クラブ野球選手権]]へ初出場させている。[[豊川高等学校]]から監督として招聘されたことを受け、同年末にNTTを退社して{{by|2008年}}より同校野球部監督に就任した<ref name="mainichi_20030621"/>。選手たちに自分たちで考える姿勢を植えつけてチームに一体感が生まれ、{{by|2009年}}には13年ぶりの秋季東海大会進出を果たしている<ref>毎日新聞、2009年10月22日付朝刊、愛知地方面</ref>。
 
==プレースタイル==
長身から投げ下ろす140km/h台の[[速球]]に加え、鋭い[[フォークボール]]<ref name="mainichi_19940802"/>や[[スライダー_(球種)|スライダー]]<ref name="mainichi_19941020"/>を駆使する本格派<ref name="mainichi_19941020"/>で、球質が重かった<ref>毎日新聞、1995年7月31日付朝刊、P.16</ref>。[[アトランタオリンピック野球日本代表|アトランタ五輪代表]]監督の[[川島勝司]]からはストッパー向きの気の強さがあると評価されている<ref name="mainichi_19960626">毎日新聞、1996年6月26日付朝刊、P.25</ref>。
 
NTT入社後に制球力が向上し、橋戸賞を獲得した{{by|1994年}}頃には投球練習で[[捕手]]がミットを動かす必要がないほどになっていたという<ref name="mainichi_19960628"/>。
 
==日本代表キャリア==
*第12回[[1994年アジア競技大会における野球競技|1994年アジア競技大会]]野球日本代表(1994年)
*[[アトランタオリンピック野球日本代表]](1996年)
 
==主な表彰==
*[[第65回都市対抗野球大会|第65回都市対抗野球]]橋戸賞(1994年)
 
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
 
==関連項目==
*[[三重県出身の人物一覧]]
*[[亜細亜大学の人物一覧]]
 
{{アトランタオリンピック野球日本代表}}