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{{Otheruseslist|日本の元号|日本の食品製造販売事業者|明治 (企業)|その他の用法|明治 (曖昧さ回避)}}
{{日本の歴史|MIKASAPAINTING.jpg|180px|画像説明=[[日露戦争]]の[[日本海海戦]](1905年)<br />}}
'''明治'''(めいじ)は、[[日本]]の[[元号]]の一つ。[[慶応]]の後、[[大正]]の前。[[1868年]][[1月25日]](明治元年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]])から[[1912年]](明治45年
== 改元 ==
* [[慶応]]4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]([[1868年]][[10月23日]]) - 睦仁親王[[即位]]を受けた代始改元。
** ただし、改元の[[詔書]]には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、
* [[1912年]](明治45年)[[7月30日]]([[1873年]](明治6年)にグレゴリオ暦を施行) - [[明治天皇]][[崩御]]および嘉仁親王[[践祚]]を受け[[大正]]に改元。同日施行され、大正元年7月30日となった。
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『[[易経]]』の「聖人南面而聴天下、嚮'''明'''而'''治'''」より。
「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」というこの言葉は、過去の改元の際に江戸時代だけで8回、計10回候補として勘案されているが、通算にして11度目にして採用された。同時に[[一世一元の詔]]も併せて出され、睦仁天皇在位中の改元は行わないものとした。
[[越前藩|前越前藩主]][[松平春嶽|松平慶永]]らが勘案した文面を[[籤]]としたものから、宮中[[賢所]]にて睦仁天皇が自ら抽選したものだとされている。
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{{和暦|1867}}に[[江戸幕府]]15代将軍・[[徳川慶喜]]が朝廷に対し[[大政奉還]]を行なった。これにより朝廷は[[王政復古 (日本)|王政復古]]を宣言。{{和暦|1868}}[[1月]]、京都付近において薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と旧[[幕臣]]や会津・[[桑名藩]]兵を中心とする旧幕府軍との間に武力衝突が起こった([[鳥羽・伏見の戦い]])。これに勝利をおさめた新政府軍は徳川慶喜を朝敵として追討し、[[江戸]]へ軍を進めた。[[大久保一翁]]や[[山岡鉄舟]]の尽力もあって新政府軍を代表する[[西郷隆盛]]と旧幕府軍を代表する[[勝海舟]]との交渉が成功し、同年[[4月]]、江戸は戦火を交えることなく新政府軍により占領された([[江戸開城]])。東北諸藩も[[奥羽越列藩同盟]]を結成して[[会津藩]]を助けたが次々に新政府軍に敗れ、同年[[9月]]には激しい戦闘の末会津藩も降伏した。{{和暦|1869}}[[5月]]には旧[[幕府海軍]]を率いて[[函館]]を占領していた[[榎本武揚]]らが[[五稜郭]]の戦い([[箱館戦争]])に敗れて降伏し、ここに[[戊辰戦争]]は終結した。
[[賞典禄]]を受けた「'''[[幕末の四賢侯|四賢侯]]'''」を中心とする[[討幕]]派大名
戊辰戦争のさなかの1868年(明治元年)[[3月]]には、[[由利公正]]・[[福岡孝弟]]の起草により天皇が群臣をしたがえて神々に誓うという形式で『'''[[五箇条の誓文]]'''』を定め、公議輿論の尊重、開国親和など新しい政治理念の基本を宣言した。翌日に『[[五傍の掲示]]』を掲げた。その内容は五倫の道(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の道徳)を説き、徒党・強訴・[[キリスト教]]を禁止するなど旧幕府の政策を引き継いだものであったが、数年以内に廃止された。次いで政府は[[太政官]]・[[神祇官]]と呼ぶ[[官僚]]制度を整えた。また人心を一新するため同年9月には年号を'''明治'''と改めて、天皇一代の間一年号とする一世一元の制を立てた。同年[[7月]]江戸は[[東京]]と改められて[[明治天皇]]が[[京都]]から東京に移ったのを始め、翌年には政府の諸機関も東京に移された。これら一連の動きは当時'''御一新'''と呼ばれた。
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