「溝口直治」の版間の差分

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'''溝口 直治'''(みぞぐち なおはる、[[宝永]]4年<ref>『[[寛政重修諸家譜]]』では宝永2年誕生とするが、ここでは新発田藩「御記録」(『新発田市史資料第一巻 新発田藩史料(1)』所収)に拠った。「御記録」の記載からは、幕府に対しては宝永2年誕生で早世した兄と同一人物として届け出られたのではないかと思わせる節がみうけられる。</ref>[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]([[1707年]][[8月23日]]) - [[享保]]17年[[5月11日 (旧暦)|閏5月11日]]([[1732年]][[7月7日]]))は[[江戸時代]]の[[大名]]。[[越後国]][[新発田藩]]の6代藩主。5代藩主[[溝口重元]]の次男。初め重貞(しげさだ)と称し、のち直治と改める(将軍世子[[徳川家重]]の「重」を憚ったため)。幼名は虎之助、のち久三郎。官位は従五位下。信濃守。母は重元の側室で藩士山崎定右衛門の娘・角(信号院)。
 
宝永4年(1707年)江戸においてまれる。享保元年([[1716年]])[[徳川吉宗]]にはじめて拝謁初[[御目見]]する。同3年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]([[1719年]][[1月11日]])重元の死去により家督を継ぎ、翌享保4年([[1719年]])家督の礼として重元の遺品である青江助次の太刀を将軍家に献上する。同年従五位下信濃守に叙任。同9年([[1724年]])[[越後国]][[蒲原郡]]の[[天領|幕府領]]4万3000石を預けられ、同14年([[1729年]])にはさらに2万石を預けられた。同15年([[1730年]])には叔父[[逸見元長]]に年々[[蔵米]]1000石を与え、幕臣とすることを願って許された。同17年(1732年)江戸において26歳で歿。法号は天真全用大機院(大機院殿前信州大守天真全用大居士とも)。江戸駒込の[[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]]に葬る。直治は[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]主[[榊原政邦]]の娘と結納まで交わしていたが、婚儀を行う前に病に倒れ縁談は解消。従って嗣子が無く、一族の旗本・[[溝口直道]]の四男亀之助([[溝口直温]])を急養子に迎えて家督を継がせた
 
享保9年([[1724年]])、[[越後国]][[蒲原郡]]の[[天領|幕府領]]4万3000石を預けられ、同14年([[1729年]])にはさらに2万石を預けられた。同15年([[1730年]])には叔父[[逸見元長]]に年々[[蔵米]]1000石を与え、幕臣とすることを願って許された。
直治の治世は財政窮乏がひとつの頂点に達した時期であり、新発田藩では下級藩士の召し放ちや、藩士からの知行・俸禄の借り上げを行うのやむなきに至った。ことに国元において例年のように繰り返される水害は藩財政に大きな打撃を与えた。このために[[加治川]]や[[阿賀野川]]の水系において大規模な[[治水]]工事が行われたのも、またこの時期の特徴であった。
 
享保17年(1732年)、江戸において26歳で死去した。法号は天真全用大機院(大機院殿前信州大守天真全用大居士とも)。江戸[[駒込]]の[[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]]に葬る。直治は[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]主[[榊原政邦]]の娘と結納まで交わしていたが、婚儀を行う前に病に倒れ、縁談は解消された。嗣子はなく、一族の旗本・[[溝口直道]]の四男・亀之助([[溝口直温]])を急養子に迎えて家督を継がせた。
 
直治の治世は財政窮乏がひとつの頂点に達した時期であり、新発田藩では下級藩士の召し放ちや、藩士からの知行・俸禄の借り上げを行うのやむなきに至った。ことに国元において例年のように繰り返される水害は藩財政に大きな打撃を与えた。このために[[加治川]]や[[阿賀野川]]の水系において大規模な[[治水]]工事が行われたのも、またこの時期の特徴であった。
 
== 注 ==
<references />
 
{{新発田藩主|6代|1719- 1732}}
 
{{DEFAULTSORT:みそくち なおはる}}
[[Category:溝口氏|なおはる]]
[[Category:外様大名新発田藩主|なおはる]]
[[Category:江戸の大名]]
[[Category:1707年生]]
[[Category:1732年没]]