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'''大名屋敷'''(だいみょうやしき)は、その大名が仕える主人の[[屋敷]]や城の付近や内側に構えた屋敷である。人質を住まわせるための施設や天下普請のための宿舎と工事事務所を意味していることもあった<ref>東京都市史研究所編 『比較考証 江戸東京古地図散歩』 新人物往来社 1999年</ref>。文禄・慶長の役の際に[[名護屋城]]に造られた大名[[陣屋]]等もそれに含まれる。
 
大名の領地においては、大名屋敷は基本的に屋敷のみで独立して建てられることはなく、城内に組み込まれて設置された。このため、多聞櫓は長屋として、櫓は蔵として利用するなど、特に周辺施設は防御施設と兼用される例が多く見られる。また、屋敷自体も防御施設を兼ねたり籠城に備えた配置や構造となってるものもある。城内の大名屋敷は概ね大名の居住する「奥向」と藩内の政治的、経済的な窓口や現在の[[庁舎]]のような役割を持つ「表向」とに分かれるが、他にも式典や饗応、娯楽などの多様な機能を有していた。屋敷の呼称は通常は城を含めて「居城」と呼ばれ、屋敷自体については設置場所に応じて本丸にあれば「本丸御殿」、三の丸にあれば「三の丸御殿」などと呼ばれた。また、特に大名の本邸であることを示す場合は「居屋敷」や「上屋敷」などと呼ばれる。この他、城内の外れや郊外には下屋敷(しもやしき)が設けられ、休憩所や隠居所、近親の居所などに用いられることが多かった。
江戸時代においては、[[江戸城]]近辺に幕府が土地を与えて構えさせ、また各大名の事情により[[大坂]]や[[京都]]などにも構えられた。[[江戸]]の大名屋敷は'''[[江戸藩邸|江戸屋敷]]'''と呼ばれ、大名の幕府への政治的、経済的な窓口や現在の[[大使館]]のような役割も持っていた。
 
江戸時代においては、[[江戸城]]近辺に幕府が土地を与えて構えさせ、また各大名の事情により[[大坂]]や[[京都]]などにも構えられた。[[江戸]]の大名屋敷は'''[[江戸藩邸|江戸屋敷]]'''と呼ばれ、大名の幕府への政治的、経済的な窓口や現在の[[大使館]]のような役割も持っていた。
 
大名が居住する屋敷は「'''上屋敷'''(かみやしき)」と呼ばれ、郊外に別邸として設置された「'''下屋敷'''(しもやしき)」と使い分けられた。下屋敷には大規模な庭園([[大名庭園]])が造営されたり、多くの蔵が建てられることも多かった([[蔵屋敷]])。また、大名の中にはこの間に「中屋敷(なかやしき)」を設けるものもあった。(''江戸における大名屋敷の詳細は[[江戸藩邸]]を参照のこと'')。