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'''マグヌス'''(Magnus, [[1045年]]頃 - [[1106年]][[8月23日]])は、[[ビルング家]]最後の[[ザクセン君主一覧公国|ザクセン]][[ザクセン君主一覧|公]](在位:[[1072年]] - [[1106年]])。[[ザクセン君主一覧|ザクセン公]][[オルドルフ (ザクセン公)|オルドルフ]]と[[ノルウェー]]王[[オーラヴ2世 (ノルウェー王)|オーラヴ2世]]の娘[[ヴルフヒルト]]の子。
 
[[1070年]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]][[オットー・フォン・ノルトハイム]]が[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]から皇帝暗殺を計画したとして[[バイエルン公国|バイエルン公位]]を取り上げられた。[[マグヌス]][[オットー]]と同盟、[[ハインリヒ4世]]と戦ったが敗れて[[ハルツ城]]に投獄された。[[1072年]]に解放されたが、[[ザクセン貴族]]達は[[ハインリヒ4世]]の措置に怒り反乱を起こした([[ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)|ザクセン戦争]])。[[1074年]]で一旦和睦したが、翌[[1075年]]の[[ホムブルクの戦い]]で敗れて再度投獄、[[ハインリヒ4世]]に降伏した。
 
しかし、[[ハインリヒ4世]]が[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]と[[叙任権闘争]]で争うと、マグヌスは[[対立王]][[ルドルフ・フォン・ラインフェルデン|ルドルフ]]と共に[[ハインリヒ4世]]に反抗した。その後和解したが、[[ブレーメン]][[大司教]][[アダルベルト]]と紛争を引き起こした。
 
[[1106年]]に死去。息子が無かったため、[[ビルング家]]は断絶した。同年に[[ハインリヒ4世]]も亡くなり、後を継いだ[[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]は[[ザクセン貴族]][[ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)|ロタール・フォン・ズップリンブルク]]を[[ザクセン公]]に任命、[[ロタール]]は後に[[ハインリヒ5世]]亡き後の皇帝に即位した([[ロタール3世]])。[[ロタール3世]]から[[ザクセン]]を相続した[[ハインリヒ10世 (バイエルン公)|ハインリヒ傲岸公]]、[[ハインリヒ10世 (バイエルン公)|傲岸公]]から[[ザクセン公国|ザクセン]]を奪った[[アルブレヒト1世 (ブランデンブルク辺境伯)|アルブレヒト熊公]]はマグヌスの外孫である。
 
== 子女 ==
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*『ドイツ史 1 先史~1648年』[[成瀬治]]、[[山田欣吾]]、[[木村靖二]]編、[[山川出版社]](1997年)
 
{{先代次代|[[ザクセン君主一覧公国|ザクセン]][[ザクセン君主一覧|公]]|1072年 - 1106年|[[オルドルフ (ザクセン公)|オルドルフ]]|[[ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)|ロタール1世]]}}
 
{{DEFAULTSORT:まくぬす}}