関の最大の業績は、天元術を革新して傍書法・点竄術を確立したことである。これは[[数学記号の表|記号]]法の改良と[[理論]]の前進の双方を含み、後に和算で高度な数学が展開するための基礎を提供した。
天元術は中国で発達した代数的解法である。求める数を[[変数 (数学)|未知数]]''x''(天元の一と呼ぶ)とし、演算を施して一1元の[[代数次方程式|方程式]]を立て、それを解くことでいて問題の答えを得た。1元方程式は次数に拘わらず[[ホーナー法]]によって近似的に解けたため、1元方程式に帰着できる問題はもちろん、[[幾何学|幾何]]の問題も機械的に代数の問題に帰着して扱った。しかし[[明|明代]]に入ると中国では天元術は衰え、もっぱら[[李氏朝鮮]]で継承されてゆく。朝鮮での発展や日本への流入の過程は今日でも不明な点が多い。日本では17世紀に入ってから、主に京阪の和算家の橋本正数・[[沢口一之]]らによって熱心に研究された。沢口の『古今算法記』(寛文10年、1670年)は、天元術の学習がほぼ完了したことを示している。
天元術 の欠点には 、多変数の高次方程式を扱えな かい欠点があった ことである。これは未知数を記号ではなく 、[[算木 ]]を置く場所で表現しているからで、例えば (1 (1 3 4)4) というの配置は 一1変数 の多項式 <math>1+3x+4x^2</math> または多変数の 一1次式 <math>x+3y+4z</math> か のいずれかを表す (<ref>[[朱世傑]]著『四元玉鑑』では 二2次元の配列を用いて、最大4変数まで扱 えるよう ことを可能にしているが、これ以上の一般化は不可能 であだった )。</ref>。したがって 、二つ2個目以降の未知数を文章による議論で消去して から、天元術を用いねばならなかった。 ▼
天元術で得た方程式は数値的解法([[ホーナー法]]、ホーナーによる提唱は19世紀)によって、一元ならば何次であれ近似的に解けたため、一元一次方程式に帰着できる問題は天元術によって解いた。また、幾何の問題も機械的に代数の問題に帰着して扱った。しかし、[[明|明代]]に入ると中国では天元術は衰え、もっぱら[[李氏朝鮮]]で継承されてゆく。朝鮮での発展や日本への流入の過程は今日でも不明な点が多い。日本では17世紀に入ってから、もっぱら京阪の和算家、橋本正数、[[沢口一之]]らによって熱心に研究された。[[沢口一之]]の『'''古今算法記'''』(1670年、寛文10年)は天元術の学習がほぼ完了したことを示している。
上述の『古今算法記』 は巻末 にの15問の未解決問題(遺題) を提示したが、それらはまさに多変数の方程式を必要と するものであっした。関は『'''発微算法'''』 (1674年、(延宝2 年、1674年)でそれらすべての 「解 」を与え たている。それは 、「傍書法 」、すなわち算木による [[数 値]]ではなく紙の上の [[文字 ]]によって算式を論じる代数筆算を用い て、 二つ2個目以降の未知数を文字で あらわすことで表して多変数の方程式の表現し、それを 、問題の解法を導く術「点竄術 」によりで処理 することで可能となっして求めた のである。 ▼
▲天元術の欠点は、多変数の高次方程式を扱えなかったことである。これは未知数を記号ではなく、算木を置く場所で表現しているからで、例えば(1 3 4) という配置は一変数多項式<math>1+3x+4x^2</math>または多変数の一次式<math>x+3y+4z</math>かのいずれかを表す([[朱世傑]]著『四元玉鑑』では二次元の配列を用いて、最大4変数まで扱うことを可能にしているが、これ以上の一般化は不可能であった)。したがって、二つ目以降の未知数を文章による議論で消去して天元術を用いねばならなかった。
ただし 、『発微算法』 には変数を消去し て得られる一変数代数た後の1元方程式が書かれているだけで(それすらも詳細を端折った解答もあった)、その背景にある傍書法は一切表に現れ ていない。 その上、加えて初期の版では若干の誤りがあった 。そのため、 その正当性に疑いを持つ者も現れた。 ▼
▲上述の『古今算法記』は巻末に15問の未解決問題(遺題)を提示したが、それらはまさに多変数の方程式を必要とするものであった。関は『'''発微算法'''』(1674年、延宝2年)でそれらすべての「解」を与えた。それは、「傍書法」すなわち算木による数値ではなく紙の上の文字によって算式を論じる代数筆算を用いて、二つ目以降の未知数を文字であらわすことで多変数の方程式の表現し、それを、問題の解法を導く術「点竄術」により処理することで可能となったのである。
例えば 、田中由真の弟子、佐治一平 (さじ かずひら、生没年未詳)は15の回答のうち12 はが誤り である、だと主張した(実際には 、佐治の指摘のほとんどは的外れ であだった)。さらに 、佐治の師にあたる田中由真は『 '''算法明解 '''』 (1679(延宝7年、[[1679年 ]])で 関とは、別の 回解答を関とは独立に発明した点竄術 (・傍書法 )を用いて与えた。 そこ で、弟子のれに対して建部賢弘が『'''発微算法演段諺解'''』 (1685(貞享2年、[[1685年 ]])で点竄術とそれを用いた解法の詳細を公開し、併せて若干の誤りを(場合によっては注記せずに)訂正している。 ▼
▲ただし、『発微算法』は変数を消去して得られる一変数代数方程式が書かれているだけで(それすらも詳細を端折った解答もあった)、その背景にある傍書法は一切表に現れない。その上、初期の版では若干の誤りがあった。そのため、その正当性に疑いを持つ者も現れた。
さらに進んで『'''解伏題之法'''』([[天和 (日本)|天和]]3年 (、[[1683年]] )))では、 [[終結式 ]]を用いた消去の一般的な理論を示し た。そして、 さらに終結式を表現するために[[行列式]]に相当するものを導入した。ただ 、ここでし関は3次 と・4次 についてはの行列式 のは正しい表示を与えているが、 五5次については符号の誤りがあり、常に0になってしまう。これが単純な誤記の類であるか否かは不明である。やや後の1710年以前に完成した『'''大成算経'''』( [[建部賢明 ]]、[[・建部賢弘 ]]と共著)で、第 一1列についての [[行列式#余因子展開 |余因子展開]]を一般の サイズ行列について、正しく与えている。 ▼
▲例えば、田中由真の弟子、佐治一平(さじ かずひら、生没年未詳)は15の回答のうち12は誤りである、と主張した(実際には、佐治の指摘のほとんどは的外れであった)。さらに、田中由真は『'''算法明解'''』(1679年)で関とは別の回答を関とは独立に発明した点竄術(傍書法)を用いて与えた。そこで、弟子の建部賢弘が『'''発微算法演段諺解'''』(1685年)で点竄術とそれを用いた解法の詳細を公開し、併せて若干の誤りを(場合によっては注記せずに)訂正している。
類似の結果は、田中由真の『 '''算法紛解 '''』(1690年?)や、大阪の井関知辰の著書『 '''算法発揮 '''』(1690年刊)にも見られる。『解伏題之法』も『大成算経』も公刊されていないので、これらの研究は独自になされたと思われる。関と京阪の和算家との交流には不明な点が多く、今後の解明が待たれる。また、『大成算経』の存在にもかかわらず、後の関流の有力な和算家たちが『解伏題之法』を訂正して正しい展開式を得る研究を続けている。この理由も今のところ不明である。 ▼
▲さらに進んで『'''解伏題之法'''』([[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]]))では、[[終結式]]を用いた消去の一般的な理論を示した。そして、終結式を表現するために[[行列式]]に相当するものを導入した。ただ、ここで関は3次と4次については行列式の正しい表示を与えているが、五次については符号の誤りがあり、常に0になってしまう。これが単純な誤記の類であるか否かは不明である。やや後の1710年以前に完成した『'''大成算経'''』([[建部賢明]]、[[建部賢弘]]と共著)で、第一列についての余因子展開を一般のサイズについて、正しく与えている。
▲類似の結果は、田中由真の『'''算法紛解'''』(1690年?)や、大阪の井関知辰の著書『'''算法発揮'''』(1690年刊)にも見られる。『解伏題之法』も『大成算経』も公刊されていないので、これらの研究は独自になされたと思われる。関と京阪の和算家との交流には不明な点が多く、今後の解明が待たれる。また、『大成算経』の存在にもかかわらず、後の関流の有力な和算家たちが『解伏題之法』を訂正して正しい展開式を得る研究を続けている。この理由も今のところ不明である。
この一連の研究により、数学の問題は多元の代数方程式に表現できれば、原理的には解けることになった。つまり、消去の一般論を用いて一元の方程式に帰着し、その解を得ればよいのである(主に算木によるホーナー法で解いた)。また、中国数学以来の伝統で、図形の問題は[[ピタゴラスの定理]]などを用いて機械的に代数に落として処理することになっていたので、これで実に広範な問題が原理的には解けることになった。
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