「小田啓義」の版間の差分

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[[1961年]]、当時のブルーコメッツの[[マネージャー]]にスカウトされ、[[鹿内孝]]の[[バックバンド]]として[[アメリカ軍|米軍]]のキャンプなどで活躍する。その後[[田代久勝とウエスタンキャラバン]]に移籍するが、[[1964年]]にブルーコメッツに復帰し、「甘いお話」、「白い恋人」、「[[すみれ色の涙]]」などの(主として[[カップリング曲]]の)作曲なども手がける。その中で次々とヒット曲を生み出し、ブルーコメッツの全盛期を築いた。
 
ブルーコメッツ脱退後は個人活動をする中で、[[1985年]]、[[ダン池田]]に代わりビッグバンド「ニューブリード」を継承、「小田啓義とニューブリード」のバンドマスターとして[[第36回NHK紅白歌合戦]]を指揮した(しかし、翌[[1986年]]に同じブルーコメッツのメンバーだった[[三原綱木]]にバンドマスターの座を明け渡継承した事で「三原綱木とザ・ニューブリード」となり現在に至る)。また、[[NHK文化センター]]・「趣味の作曲講座」の講師を担当し、活躍した。 
 
現在も作曲や編曲といった活動をする一方、自身が主宰する「OH! MUSIC音楽教室」でボーカルレッスン講座、シンガーソングライター養成講座の個人指導を担当し、[[一青窈]]らのプロのボーカリストを育てる一方、[[細川佳代子]]や[[鳩山幸]]の[[内閣総理大臣夫人]]などの歌唱指導をしていることでも知られる。また、再結成したブルーコメッツでも全国ツアーを展開するなど実力を発揮している。